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大菊に気が付かされた人生哲学~自分と母親との関係~

大菊に気が付かされた人生哲学。


大菊。


品評会とかで観る、

明らかにオーラが違う、

凛としたものはキレイだな、美しいなと感じてきたけど。


私はどうも、菊を育てる際の支柱や輪台の存在が気になっていた。


まるで、“矯正”を“強制”されているようで。


自由に伸び伸び育てなくて、窮屈だろうな。


ちゃんとしないとイケなくて、


真っ直ぐ、上を向いて華やかに咲かないとイケなくて、


真っ直ぐなる過程で、

心身ともに痛みを抱えてないか不憫だった。


本当に菊はそれでいいのかと。


もっと自由にいきたいのではないのかと、心配になり。


ここ数年、近所のお庭の成長過程の菊に、

支柱や輪台がされていくのを観ていて、

なんか考えさせられていた。


それこそ、飼い主?育て主が、品評会なんかに出そうとしていたのなら、

その熱の入れ用は凄まじいだろう。


あなたのためを思って~

よかれと思って~


とか言って、育て主の愛情たっぷりのカタチをした、育て主ならではの時代背景や偏った過去の体験、こだわりや価値観などの強い想いや。

常識と言われる一般社会通念を叩き込まれ、

押し付けて来られたのだなと。


で、思い通りに育たないことにイラ立ったり、

熱量が足りないのではないか?と悩んだり。

私の育て方が悪かったのか?と自分を責めたりして。

 

でも、基本的には良いことをしてると信じてやまないんだろうなと。


なんか、菊を観ていて、自分と親の関係に重ねた。


素直に、表面だけを観て、

キレイね~

すごいわね~では済まされない感情が私にはあった。


深読み?してしまうのは私の思考の癖である(((^_^;)


けど、最近、ハッとしたことがあった。


菊は明らかに細くて長い茎に対して頭が重すぎて。


支柱や輪台がないと、

そもそも生きられないのだと。 


自由になんて生きられず、


枯れちゃう、つまりは死んでしまうのだなと。


育て主は矯正を強制していたのではなく、

生きてくために必要なお手伝い、サポートをしてくれていたのだなと。


それも、事前に、タイミングよく。


首が折れたり、

根腐れや干からびないように、


こまめに、臨機応変に。

なんて、めっちゃ有り難いことなんだろう。


全部、愛だったんだ!!!


キレイに咲けるかどうかはまた別の話だし、


どの品種かによっても、色やカタチが違う。


どこに生まれ育つかで(一般家庭の観賞用なのか、名門の菊農家?なのか)、

そもそも、だいたいの行く末は決まってる。


やればできるなんて思い上がりだ。


まさに「置かれた場所で咲きなさい」だなと。


矯正が窮屈で仕方なかったけど。


万人ウケするようにキレイには咲けなかったけど、


どう咲けるかは自分次第。


長く咲けるか、どっちを観て咲くかとかは自由。


てか、むしろ、太陽の位置関係とかはもはや、そういうご縁。


つまりは、手をかけてくれて、目をかけてくれてありがとう。


育ててくれてありがとうございます(ToT)


なんか、それに気が付いて泣けてきた。


大菊の矯正に想う、母との関係性。 


母のお陰でなんとか生きていけるようになったんだなと。


本当に色んなことがあったけど、辛かったと感じていたけど。


なんか、全部、経験しといて良かったんだなと。


お陰さまで、またひとつ剥けた気がした。


人の魂は玉ねぎの皮みたいだから、

まだまだいくらでも剥けるし、

慣れてないと剥くとき涙出るんだけど。


剥き過ぎて無くならない程度に剥いていきます(^ω^)


めっちゃラクになりました。

自分の深いところと向き合うってしんどいね。


普通の人はここまでやらないだろうし、

一人じゃできないけど。


最終的には自分しかいないわ。


ありがとうございましたm(__)m


写真はネットからの拝借です。

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