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私の個人的体験

緊急事態宣言下において、必要最低限の外出しかしていなかった私は、久しぶりに六本木に来た。

機械的なルールにこだわり、でもクリエイティビティを求め、数字での可視化を求められる。数字で可視化できないものは理解を得られない。もちろんビジネスなのだから、数字は必要であるが、あまりに数字に表すことにこだわり過ぎると、結果を数字で表せないものは排除され始める。なぜか。数字でわからないから。
そんな2021年最初の1ヶ月を過ごしていた私は、日々仕事に追われて土日は動く気になれず、でも見たいものはたくさんあるし映画にも行きたい。プライベート時間を無駄にしているようで、とてつもない罪悪感があった。

ようやく重い腰があがったのが今日。
プライベートでも仲良くしてくれている写真家が、写真展を開催&写真集を出すと言う連絡は年始に入っていた。2カ所で同時開催。しかし一方のギャラリーは展示費用が全て自己負担のため、この緊急事態宣言下での開催はかなり迷っていると言う連絡も受けていた。とはいえ、延期したところでいつになったら新型コロナウイルスが収束するのか想像もつかず、この一連の作品を発表しないと次に進めないのも事実。散々迷った結果、展示を予定通り行うことになったと言う。そんなことを聞いたら、行くしかない。
と言うわけで、せっかく六本木に行くのだから近くで何か展示がやっていないか検索して見つけたのが、shugoartsで開催しているLEE kitの「(screenshot)」だった。

正直、よくわからなかった。LEE kitの基本情報も何も知らずに行ったからか、よくわからなかった。
プロジェクターで投影されるなんでもない部屋の一角の定点映像。その端に定期的に短いメッセージが英語で表示されては消えていく。奥に進む通路には彼が撮った写真の作品が数点。これもまたなんでもないシーン。そして奥にはまたプロジェクターで映し出される定点映像。
しばらくその映像の前に立ってみたが、変な閉塞感みたいなものを感じ、居心地が悪かった。

Shugoartsを出たら、隣のTOMIO KOYAMA Galleyでも展示をやっていたので入ってみた。シュ・ニン(許寧)展「Season – Letter」というものだった。

スクリーンショット 2021-01-30 20.47.35

なんか、これ知っているなぁと思ったら、昨年のアートアワードトーキョー丸の内でグランプリを獲っていたアーティストだった。昨年は実物は見れず、WEBでみただけだったので、すぐに結びつかなかった。初めてみる実物は、とてもダイナミックだけど繊細で重いようで軽くて、音楽を聴いているみたいだった。華やかなカーニバルを音に乗せて表現したものをペインティングで表現したような、そんなイメージ。近づいてみると絵具が重ねられて立体的になっていたり、離れてみるとそれまで抽象だと思っていた絵画の中に、手や建物と言った具体的な物体が描かれているのにも気づき、ちょっと嫌な感じがした。1mくらいまで近づいてみた方が、私は好みだった。

TOMIO KOYAMA Galleryを出た後、もう1度shugoartsに入ってみた。シュ・ニンの作品とは対照的に、相変わらず薄暗い部屋の中に映像が映し出されている。最初に見た時より閉塞感がなく、そんなに居心地は悪くなかった。むしろ広がりすら感じた。

この体験がなんだったのか、帰り道に考えてみた。
なぜシュ・ニンの作品は近づいてみた方が好きだったのか。先日、仕事の取材で「記号」を人が認識する境目の話を聞いた。俯瞰すると人は「○○だ!」と認識するが、目のあまりに近過ぎるところにあると、なんだかわからない。つまり、記号が消える。きっと私は、日々”可視化”という言葉を連呼されすぎて、認識できるものを見たくなかったのだ。
また、なぜシュ・ニンをみる前後でLEE Kitの感じ方に変化があったのか。展示概要を調べてみると、ステートメントの最後に「罪悪感がスクリーンショットされる」と書いてあった。なんとなく、最初に感じた居心地の悪さの原因がわかったきがした。きっと私は、目からインプットしていなすぎて義務感に駆られてshugoartsにやってきた。その義務感で見ている罪悪感を、刺されたのかもしれない。さらに、数字で表せる成果ばかりを追っていたこの狭苦しい1ヶ月と、この空間が重なり、居心地の悪さを感じたのかもしれない。そして、再びLEE Kitを見た時に感じた広がりは、シュ・ニンを見て少し解放され、記号を拒絶して認識しない脳に変換された状態で見たからなのかもしれない。

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