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足音を追いかけて


久しぶりに歩きやすい。

少し肌寒さを感じて、さっき買ったカーディガンを羽織ってみる。


繰り返しやってくる、月に1回のリセットの時間。

最初は無謀なことをやろうとしているのかもと思ったけど、いつの間にか日常の1つになっていった。


習慣の力ってすごいなと改めて思う。





8年間触っていなかった楽器のカバーを外して、5年。

気付けば2つのピアノコンチェルトと1つの幻想曲がレパートリーに入り、また新しいコンチェルトのアレンジが自分の作品としての形をなしてきている。


仕事の合間に取る僅かな時間の蓄積が、具体的な形になっていくこと。

必死に成果を追い求めていた頃には決して手に入らなかった自分自身の表現と、作曲家の表現しようとした世界が重層的に存在する音楽に近づいていっていること。


それは、普段関わっている子どもたちと過ごす時間の中で着実に変化し成長していく他者の姿を目にすることと合わさって、

一瞬一瞬の選択と思いが人生を作っていくことを教えてくれる。




フワフワとした不安に苛まれたり、動揺したりすることがなくなるわけではないけれど、そういったものに主導権を渡すのではなく上手く共存できていることは、


結局「今」の積み重ねでしかないことを認識できていることが大きいのかもしれない。



大通りを渡って門を通り抜ける。


砂利の中から聞こえてくる自分の足音を追いかけながら、普段見ているよりずっと広い空を眺めると、またもうすぐ1年が終わるんだなという思いが思考の表層部分に一瞬表れて消える。


妙な焦燥感に引っ張られることが少なくなって、それと同時に「軸がある」と言われることが増えてきたのは、

「もったいない」といった類の感情が芽生えるものこそ、本当は些末な問題であって、自分にとっては不要なものなのかもしれない、と気付いたのもあるんだろう。

「もったいない」に囚われていること自体がもったいなくて、

そうしたものを一つ一つ手放していくと、本当に大切にしたいものに対しては「諦める」という選択肢が自然となくなってくる。

目の前の景色がシンプルになる。


そうやって生まれた「軸」らしきものに、強固に支えてもらっているなとよく思う。





結局、物事のどの側面を見るかということに尽きる部分はあるのかもしれない。


もちろん、特定の面しか見えなかった時の自分のことも否定する必要はなく。


偏った見方のおかげでできるようになったことが増えた、可能性が広がったという経験も沢山あったことを見直していくと、


様々な出会いの中で起こる全ての物事が自分を支えている要素を構成してきてくれたことにも自然と感謝の気持ちが湧いてくる。



来月はコートとマフラーがいるかも。


スケジュール的に今年は無理だと思っていたショパンが、1つの形になっていることを、少し期待して。








Reikoさん、ここぴさん
先日は記事購入してくださって、とっても嬉しかったです。
ありがとうございました♡


最後まで読んでいただいてとっても嬉しいです。ありがとうございます♡