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自然な流れの中で

「パッケージがもったいなくて開けられないんだよ。」

もし私がウィーンに生まれていたら、こんな感じのお父さんだったのかな、と突拍子もない想像をする。いつも娘のように接してくれる私のドイツ語の先生は、7月に渡した焼き菓子をまだ開けてくれない。

すごく自由に見える一方で、とても頑固で、時々面倒くさい。しばしばドイツ語と日本語と英語が混ぜこぜの口論が勃発する。結構凄まじい言い合いになることもある。

テキストとは全然関係ないところに話が脱線していって何時間も延長し、それでも1ページも進んでいないなんてことにも、もう慣れてしまった。

最初の頃、こんなにも好き放題の授業で毎回驚くほど収穫があることは、同じように「教える」仕事をしている立場からすると、謎だらけだった。

なんかよく分からないけど、毎回笑ったり怒ったりしていたら、専門性の高い文章もそれなりに読めるようになり、聞き取れるようになり、並行してちょこちょこ勉強していたらC1も受かってしまった、という流れができていた。

それはこれまでの自分の「上手くいってきた努力の仕方」とは全く異質で、考えさせられることが多い経験だった。


私は普段自分の生徒の授業をする時に、話をしたり聞いたりする時間を大切にしつつも、毎回頂いた時間内で特定の成果を生むという視点は外さないようにして授業を組み立てる。

ただ、そこに意識が行き過ぎると、余白があるからこそ生まれる相互作用であったり、感情的なやり取りが生む相乗効果が失われてしまうこともある。

先生に会うたびに、何より「もっと自由でいいんだな」と再確認する。


私の父と同世代で、娘さんは私と同い年。父娘が簡単には会えない距離で暮らしているのも同じ。程度の差こそあれ、生活のリズムや空気が全然異なる環境から出てきて東京で暮らしているという点でも通じる部分がある。

家族でも恋人でも友人でもないからこその距離感が作ってくれている年齢を超えた信頼関係は、私に多くのものをもたらしてくれている。


「あなたは、本当に頭の回転が速い。そんな狭い世界で生きるんじゃない。もっと自信を持つんだ。」


突然目の前でそう言われた時は、時が止まったかのようだった。

不足している部分ばかり目について、そこを改善したい、もっと頑張らなきゃと思いがちな性格は、無意識のうちに自分を責める方向へと矢印を向けていく。

その思考の偏りから脱却できる時間。それが自然な上達の流れを生んでいるんだと思う。

普段生徒と接する時にこういう流れを作り出せる先生でいたい。いつも沢山のヒントをもらう、ちょっと不思議で大切な授業の時間になっている。

最後まで読んでいただいてとっても嬉しいです。ありがとうございます♡