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ラジオDJが最後に伝えたかったことは

昨日は全然眠れなかった。今朝は目覚ましもなっていないのに5時に起きてたくさんもらったプレゼントを見てぽかーんとしていた。終わったのか・・なんだか、それも夢だったんじゃないかと思えた。

子どもたちを保育園に送った後、お皿を洗いながらradikoのタイムフリーで昨日の番組を聞いた。いつも放送の時は「自分の声や話がリスナーにはどう聴こえているのか」というのを一番大事にしてきたはずなのに、昨日はそこまで気がまわっていなくて(ダメですねぇ)聞こえてきた番組は自分が思っていたのとはやっぱりちょっと違ってた。「あ、この言葉こっちに変えたいな」「ここにもう一言入れたかったな」後から放送を聞いて思うのはいつものこと。違うのはそれを来週に活かそう!とはもう思えないこと。あ、やっぱり終わってたんだなと実感した瞬間だった。

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私がまだ2年目くらいの頃に AZUSAさんが言った言葉を思い出していた。「自分が入ってきたっていうことは、誰かが席をあけていったからなんだよね。いつかは自分もそういう時がくる。」その時が来たんだな、と思った。ちょうど私の最終回の直前には4月から入ってくるナビゲーターがランスルー(実際の番組を本番前に一度通しでやってみること)をやっていた。12年前はドキドキしながら自分もそれをやっていたことを思い出した。そんな席をあけていく者として次の人たちへバトンタッチとして何が言えるかな、と思った時にやっぱり出てきたのが震災後のオンエアのことだった。その時にエンディングの内容が決まった。

震災の後の放送はマイクの前に座った12年の中でも特に記憶に残っている。あそこで私はラジオの役割を学んだんだ。あの時、テレビやインターネットでは繰り返し悲惨な映像が流れ、毎日新しい数字が出てきていた。それは目の前の現実で、もちろん必要な「情報」であったけれど、そればかりを見ていると気が滅入ってしまいそうなのも事実だった。同じ時に、ラジオは全然違うものを映し出していた。「今、こんなことを思っています」「こんな思いを届けたいと思う」中には「買いだめはいけないと思うけど、うちは大家族で普通に日常の買い物をしていたら白い目で見られて辛かった」というものもあった。目に見えるものを発信していたテレビやインターネットと違って、ラジオは目に見えないものを伝え続けていた。

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メッセージの内容は最初「いつこちらで起こるかもわからないから備えよう」「こんな備えがいるよね」というような防災にまつわるものだった。そこから1週間くらいは「東北へこんな思いを届けたい」「こんな支援をしたい」というような被災地へ向けてのメッセージが続いた。変化が起きたのはちょうど1週間後のことだった。誰もが示し合わせたように同じメッセージを送ってきたのだ。「あたり前だった日常の大事さに気づいた」被災地に向けられていたベクトルが自分自身へ向いた瞬間だった。Bump of Chickenのsupernovaをかけたことを覚えいる。

そんな心の変化を私は伝え続けていた。これがリスナーをつなぐ「ナビゲーター」の役割なのだと気づいた。そして「いつも聞いているマイカちゃんの声を聞いたら安心した」というたくさんのメッセージに、大変なことが起こった時こそラジオは必要なメディアなんだと知った。「気持ちを大丈夫の位置まで持っていくこと」が難しい時がある。そんな時に元気いっぱいまではいかなくてもせめて大丈夫の位置まで持っていける力がラジオにはあることを私は知っている。自分もそれに助けられてこの道を目指したのだから。

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そんなことをもっとしっかり伝えたかったはずなのに、何だか言葉足らずになっちゃったな〜とnoteに書いている私は今の時代にずいぶんと救われているようだ。来週に生かせなかった反省をこんな形でリカバリーできるのだから。

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たくさんのプレゼントを持って帰ると娘が顔を輝かせて言った。「わ〜!すご〜い!!ママ、かっこいい!あたしもママみたいに大人になったらいっぱいお花もらいたいな!」

「もらえるよ、きっと。お仕事いーっぱい頑張って、みんなと仲良くしていたら最後の日にはきっともらえるよ」そう答えて、私はまた少し泣きそうになった。


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