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”降参するしかない”と、癒し

数日前にある人が
OSHOの言葉を引用してたのを見て

われわれは
深い眠りのなかで
幻を見て生きている。
希望、未来、明日という幻。
人は、その現在の状態では、
自己欺瞞なしでは
生きていけない。

ニーチェが言うには、
人は真実と共には
生きられない。
夢、幻、嘘なしには
生きられない。
ニーチェの言うことは本当だ。
人間は、
その現在の状態では、
自己欺瞞なしでは
生きていけない。
これを深く理解する必要がある。
これを理解しないかぎり、
ヨーガと呼ばれる
探求の道に
入ることはできない。

(中略) 

現在というのは、
多くの場合、
地獄を意味する。
この地獄を我慢できるのは、
未来に希望を
投げかけているからだ。
明日を夢見ているから、
今日を生きられる。
明日には何かいいことが起こる、
楽園の扉が開くかもしれないと、
あなたは思っている。
それが
今日起こることはない。
だが、
その明日がやってきて、
明日が今日になったとき、
あなたのマインドは、
そのまた先のことを
考えている。

(中略) 

だから、
自分のマインドに
飽き飽きした人だけが、
ヨーガの道に入れる。
自分のマインドを使って
何かが得られると、
まだ期待しているならば、
ヨーガは、
あなたに向いていない。
全面的な不満が必要だ。
未来に想いをめぐらせる
このマインドは無益なこと、
希望しつづける
このマインドは
馬鹿げていること、
それによって
人はどこにも行き着けないことを、
はっきりと
悟ることが必要だ。
それはあなたの目を
閉ざしてきた、
あなたに麻酔をかけてきた。
それのおかげで、
あなたは
現実を見ないでいられた。
それはあなたを
現実から護ってきた。

(中略) 

多くの人々が興味は持つが、
道に入る者はわずかだ。
あなたの興味というのは、
マインドの興味かもしれない。
今度はヨーガを試してみたら、
何かが手に入るかもしれないと
期待している。
そこには、
達成に向けての
欲望があるかもしれない。
ヨーガを通じて
完璧な人間になる、
完璧な存在となって
至福を体験するといった。

(中略) 

そんな理由で
ヨーガに興味を持っているならば、
あなたと、
ヨーガの道の間には
接点はない。
あなたは、
完全に逆の方向に
動きたがっている。

ヨーガとは、
「もはや希望はない、
 もはや未来は無意味だ、
 もはや欲しいものはない。
 だが、
 私には、
 ありのままの現実を
 知る覚悟がある。
 物事がどうなりうるかとか、
 どうあるべきかとかには
 興味がない。
 私は、
 ありのままの現実に興味がある」
という宣言だ。

リアルなもの、
真の世界の体験だけが、
人を解放するのだから。

(中略) 

完全に絶望しなさい。
未来と希望を捨てなさい。
これは難しい。
リアルなものと
向かい合うには
勇気がいる。
だが、
どんな人間にも、
たまには
そうした絶望が訪れる。
完全な絶望、
完全な無意味さを
感じるときがある。
自分がしている
すべてのことは無益であり、
どんなに奮闘して
もうどこにもたどり着かないことを
知ったとき、
突然、
希望は失せる。
未来は消える。
そのときはじめて、
あなたは
真の世界に対面する。

(長い)

私はこれを読んで癒されて、
先人の記録というものの偉大さを思った。

「あなたの興味というのは
マインドの興味かもしれない

そんな理由で興味を持っているなら
あなたは完全に逆の方向へ動きたがっている

完全に絶望しなさい
未来と希望を捨てなさい」

というところを読んで
すごく安心した。

🌷

なんでかというと
私の選択か合ってても間違ってても
結局は求める道へと進んでゆくのだと分かったから。

もし私の進む道が”Yes”なのであれば
(このYesっていう言葉もなんか、ちょっと違う感じもしつつ他にいい言葉が見つからない感じなんだけど)

私はスムーズに望む道へと進んでゆくだろうし、
きっと楽になってゆくだろうし
OSHOが言うところの”ヨーガ”、人によっては悟りとか、今こことか、マインドフルネスとか呼ぶものに、近づいてゆくのかもしれない。

間違っていて、本当に望む道ではないのであれば
私は更に絶望して、
”未来と希望を捨てる”状態になっていって、
そして、自分の本当に望む道を見つける精度が、より上がるだろう。

じゃあ結局、長い目で見ればどっちも同じじゃん!

って思った。

🌷

そんなことを思いながら夕飯作ってたら
ふと「全ては最善である」
という言葉の理解が深まった。

なんか、今まで
「全ては最善である」の「最善」って
”たくさんある中の1番いいもの”
っていうイメージでいたんだよね。

でもそうじゃなくて
”他にはない”という意味の”最善”なんだという理解に変わった。

「今、自分に起こってきていることしかない。それが自分にとっての最善」ということで
今の自分の状態が、目の前の現実にすべて反映されているんだなって思った。

「すべてが最善である」という言葉を聞いた時、
「楽観的だな~」って思ったんだけど
ただ、今の自分に1番ふさわしい状況が目の前にあるから、それをやればいいんだよ、それが最善だよ、みたいな事なんだなと思った。

(”全ては最善である”っていう言葉もすごく深いと感じるから、この先更に違う角度からもっと理解が深まって、この言葉の違う意味に気づきそうだなって思うんだけど、今の時点の私の理解ね!)

だから逆に言うと、裏ワザとか抜け道とか使ってズルするみたいな事もできないし
誰かに代わってもらうこともできないし
テクニックで何とかなることもないし
そういう下心みたいなの全部意味ないんだなって分かって、なんかもう諦めて自分の現実をやらせて頂くしかないなってすごく思ったの。

そう思ったら、すごく楽になって
もうなんか降参して、全部降参して全部諦めて
ただ自分で自分のやることをやればいいんだ、
それだけでいいんだ、もう考えなくていいんだ、
ただ私として私を生きていくことしかできないし、それが本筋なんだって思って
めちゃくちゃ楽になって、涙が出そうなくらいほっとした。

人にどう思われるかとか
人にどう見られるかとか
誰かと比べてあーだこーだみたいな感覚が
すごーく遠のいていった。
本当に癒された。

「生きているだけで役割を果たしている」とか
「生きてるだけでいい」って言葉に
いや結局何かしないとくつろげないようにその世界できてない?生きてるだけなんて苦痛すぎるんだよな…
と思ってたんだけど
「生きてるだけ」って「寝て食べて排泄するだけ」という意味ではなくて
「ただ自分を全うするだけ」
という意味だったのかねー、と思った。

そしてこの後にもう1つ思ったのが
”意図する”ことの大切さを改めて感じた。
ただ自分であればいい、んだけど
生きている以上、やっぱり何かしら人生に対する好みがあって、それが意図になって
その意図に自然と人生が向かってゆくというか
「最善」の方向性がその人の意図によって決まるんだなって思った。

意図も、その人のレベルによって、描ける意図と描けない意図があるから
意図を成長させてゆくことが、その人の魂の成長なのかもね。

よく具現化の話とかで
「意図したら終わり」
「意図にたどり着くように努力しなくていい」
みたいな話もあるけど
ほんとに、意図という目印を立てたら、あとはただ、今、今今今今、って感じが1番いいんだな、とも思った。

もっと書きたいことあった気もするけど、めちゃくちゃ眠くなってきちゃったからここで終わりにしよう…

3000字も書いちゃった。

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