新しいことってなんなの
「やっちまえばいいんだ」という気概、やらないと何もかも、進むどころか始まりもしないということは、当たり前だけれど頻繁に忘れてしまう。
しかもこの真理は、自分を俯瞰して見ることのできる状況、つまり余裕がある=とりあずやっちまうことができている状況でしか、実感することができない。
とりあえずやっちまう、ということが出来ない状況に自分を置き去りにしてしまうのはなぜなのか。
それはただただ、頭でっかちになっているだけ。その一言に尽きる。
たとえば人生ゲームにおいて、借金が膨らんだから不貞腐れて放棄するのと同じ。
一緒にやっている人は「急にどうした?!」と戸惑うし、しばらくしたらその人たちは、ゲームをしたことすら忘れてしまう。
でも、放棄した側はいつまでも根に持っている。
つまらないことで放棄してしまった恥ずかしさと不甲斐なさとで押し潰されそうになっている。
しかしそうやって悩む頃にはみんな次のゲームなり日常なりに没頭している。
その人生ゲームはホコリを被って、自分のコマだけがいつまでもそこにある。
それくらい馬鹿馬鹿しいことだ。「やっちまえない」ということに対して悩む時間だけ、他の人はなにか新しいことに熱中している。
しかしそこで大事なことがある。
「他の人が新しいことに熱中している」ということに感想を抱かないことだ。
感想、具体的にいえば嫉妬、羨望など、そういう感情を持ってしまえば、またその分だけクヨクヨクヨクヨぐるぐるぐるぐる考えて、果てには生きることがどういうことなのか、そんなクソ下らないことにまで考えが及んで、
脳が疲れたので眠りますという最悪の状況に陥る。
脳は怠惰でないのに身体が怠惰なので他人からみたら怠惰、つまり自分しか自分を正当化できない、そんな状況に陥る。
あなたとって芸術とはなんなのかというvogueのインタビューのような質問をされたとしたら、それは「自分を正当化するための武器」だ。
武器は使うこともできるし眺めることもできる。使う勇気がないときは眺めて、いつか使うときのことを夢想するのだ。
使うときが来ないことを憂慮するのではなくて、使うときがくることを夢想するのだ。
それは夢と同じで、
夢を抱く=武器を持つこと。
夢に近付く=武器を使うこと
夢を叶える=武器で獲物を捕らえること
って感じだ。(眠くなってきた)
ここで大事なのは、「夢を抱く」と「夢に近付く」の間に、決定的な隔たりがあることだ。
それは「物理的に動くこと」。
心理的に動くことでは、決して成し遂げられないこと。
その隔たりを、頭では分かっていても埋められない人が多いんじゃないだろうか。
頭では分かっていても埋められないことに嘆いている人が多いんじゃないだろうか。
まあ、分かっている人が増えすぎたらそれはそれで嫌なんだけどね(フフン)
「新しいこと」が出来る人は、ある意味考えていない人。または、考えることが馬鹿馬鹿しいと知っている人だ。
「じゃあ考えることを必要とする新しいことはどうなるわけ?!」という声が聞こえる(幻聴?)
それを成すためには、
考えることと行動することを自分の中ではっきり区別することだ。
はっきり区別していないと、鬱状態の時のワタクシのようになる。
頭でっかちになって、その頭が重すぎて階段を上るだけで息切れしてしまうような状況になる。
道端に咲いているクローバーをじっくり観察して、そこに4つ葉がないからその日は1日落ち込む日にしました、みたいな地獄の状況に陥る。
まあ、だからといって躁状態のワタクシは4つ葉のクローバーを見つけたらその日は1日走り回って色んな人に自慢して、酒を飲み散らかして道路で大の字になって寝て、その上財布を盗まれて友人宅にお世話になったけれど次の日にはその友人に対する感謝を忘れるどころか二日酔いに悩まされてその上4つ葉のクローバーなんかありませんでした、ってな状況になるわけだけどね。
それでも何もしないよりは、迷惑を足跡のように刻み歩いているほうがマシだと私は思う。
マシなのか?
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