物書かない物書きの民

物書きなんて名乗って良いのか、そのくらい物を書かない、まいへいです。
毎日何をしているかって何もしていません。
というか何もしない毎日こそ至福。

ここのところ思うんですが、何かをしていないと生きていてはいけない風潮って何なんですかね。
毎日しっかり働いて、休日はアウトドアや趣味に精を出して、仕事終わりは副業に力を入れる。

そんな人が素晴らしいとされる現代で「何もしていない人」はどう映っているのでしょうか。

わたし自身、どちらかと言えばアグレッシブな方なのですが、ここ数年、というかコロナスタートからまったくやる気が出ず。
やりたいことも好きなこともなく、なんとなく始めたライターが好評でゆるゆるとここまでやってきています。

もはや今ではライターでも何でもない、何も書いていない普通のスーパー店員でしかないのですが。

スーパーの仕事もコロナ当時仕事がなく、たまたま受かり働き出したのがきっかけで、いまでは好きともキライともなく、なんなら心の中では「スーパーの客は面倒」と感じてすらいるのが現状。

つまり、わたしは傍から見たらやる気なく毎日を堕落して生きている女に見えていることでしょう。

そんな現実を理解していながらも、やめられないのはこの生活に満足しているから。

だらだらと休日を過ごし、仕事は適度にこなし、毎月のライター案件を細々とこなす。
好きな場所はベッドで好きなことはのんびりすること。
これ以上ない至福な今に満たされています。

しかしながらそんなことは知らない他人から見れば

「こいついい歳して大丈夫なのか」
「将来のこと考えてないのか」
「この歳でこれってキツー」

なんて思われているかもしれません。
これに対しては世論でしかなく、わたし自身どうしようもないのでスルーしていますし、現実に言われることはないので全く気になりません。

そもそも幸せを決めるのは自分であり、他人軸に左右され続けている限り幸せはやってこないと考えています。
多くの人にとっての幸せは社会が作った虚像で、そこには個人的な価値はなく一般的にこうすれば幸せと言えるだろう、という憶測のもと考えられているものです。

でも、長年その考えが普通になっている人と一緒にいれば、その考えが染みつくのも仕方のないこと。
個人より一般大衆向けの情報が当たり前だった数年前では変わったことではないでしょう。

しかしいまは個が尊重されつつある時代にあります。
だからこそ自分という個をしっかりと出して、それを受け入れられる環境に身を置き、自分軸をしっかりと持つことが大事と言えます。

自分軸なんて正直むずかしいし、それより他人の意見に従う方が楽。
そう考える人もいるでしょう。
それはそれで良いです。
それがあなたにとっての自分軸になっているのですから。

自分の意見がないという人が多いですが、自分の意見がないという自分軸を持っているのです。
個性がないという人は個性がないという自分軸を持っているのです。
特異でなくても一般的なことでもそれを自覚し、受け入れているのであれば自分軸と思って良いでしょう。

わたしは最近、自分という人格が少し変わってきているのを感じています。
それは年齢的なものであったり環境的なものであったりするのですが、自分の生き方について考えることが増えてきました。

今の自分の生活は好きですし、これに満足はしている。
でもこのままだと、自分という人間が衰退していく危機感を覚えている。

だからこそ舵取りをする必要があるのかな、と考えます。
いまの生活を少し変える、それはいつもと違う環境に行ったり新しいものに触れたりすることだと思います。

同じ毎日が幸せ。
それは素晴らしいことですが、同じ毎日を生きるということは、少しずつ自分という人間が低迷している証拠でもあると感じています。

これは自分の肌感覚であり、他人がどうこう言う問題ではありません。
自分の中で少しずつ変わっている自覚があるなら素晴らしいことです。
ですが、毎日が同じ、変わらない日々を過ごしていると思うのであれば、それは赤に近い黄色信号と言えるでしょう。

変わらない日々とは衰退する日々を過ごすことであり、変わり続けることは日々を新鮮にしてくれるものだと思っています。

同じものは同じではない。
変わらないものはない。

そう、物書きではない物書きが申します。


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