なぜ私がコーチングを学ぶのか。勇気を出してコーチングで救われた過去も公開します!
はじめまして。まいまいと申します。
今日ははじめましての人も、お久しぶりの人も、改めて「まいまい」という人物を知ってほしいと書き綴ります。祝note初投稿!
こんな人に読んでいただきたい。
親や世間が敷いたレールに苦しんでいる
今の仕事や働き方に違和感がある
何となく生きづらさを感じている
コーチングに興味がある
まいまいについてもっと知りたい
それでは、はじめていきます!
波乱万丈な生い立ち
まずは、私のモチベーショングラフを見ていただきたい。
私のこれまでの人生において、一番苦しい時期はおよそ6歳〜高校生まで。
そしてこの時期に出来上がった人格が、その後も長く私の行動を制限しました。
なぜそんなに苦しかったのか、それは幼いころ私は自分の家族を"普通"ではないと思っていたからです。
普通では無いと思っていた理由を一部紹介するとこんな感じです。
三姉妹の父はみな違う+母の結婚歴はギリギリ両手に収まるぐらい
とある父家族に母と姉と私が追い出され文字通り無一文に
母は車の中で、私と姉は母の知人の家で生活
物心ついたときには全ての家事を自分でこなし、9歳のときには母の経営する飲食店でがっつり働いていました。
周りの友人は当たり前のように血の繋がった家族がいて、当たり前のように洗濯された綺麗な服を着て、当たり前のように出てくるご飯を食べて、心底羨ましかったことを覚えています。
"ちゃんと"しなきゃ居場所を失ってしまう
周りとは明らかに違う生活を送っていることに気づいた私は、私の家庭はおかしいのだと強く感じるようになりました。
私にとっての当たり前が友人にとっては当たり前ではなく、それまで築き上げてきた価値観は非常識であることを痛感しました。
この異常な状態では仲間はずれにされる。ひとりぼっちになる。
ただでさえお家でもほとんど独りで過ごしていたのに、学校でも独りになってはたまらないと「世間一般の当たり前」=「普通」を意識するようになりました。
普通はこんなことしない。
普通はこんな発言をする。
普通はこんな夢を持つ。
普通になりたかった私は「〜しなきゃいけない」にがんじがらめになって、怖いぐらいに優等生でした。
周りの人に変って思われないように、見た目や一つ一つの言動に気をつけ、正解を出し続ける。
小学生って無邪気に笑う写真が残っていることが多いと思うのですが、当時の私の写真は一切笑っていませんでした。
私の中には「自分がどうしたいか」なんて考えは一切なく、「普通はどうするものなのか」が全ての選択の軸でした。
そんな生き方をしていたから、自分で自分を認めてあげることなんてもちろんできず、自分のことが嫌いで仕方なく、そんな自分が映る写真も本当に嫌いでした。
THE中二病の中学生活
中学の時には重度の中二病となり(笑)
不登校も、警察にお世話になることも、自分を傷つけることも、引きこもり〜不良まで経験し自己否定をし続けました。
しかし、当時の親友の転校をきっかけに中学3年生では毎日通学するようになりました。
根はなんだかんだ真面目だったので不登校歴があるのに委員長を任されることもあり、あんなに普通を求めていたのに結局変な人だな〜と今更ながらに思います。
高校にあがった後も他者承認への欲求は止まらず、見栄をはり、注目を集め続け、クラスの中心人物で無ければ気がすみませんでした。
他者承認のために本来の自分を押し殺し、見栄を張る。
これが高校1年生までの私の生き方です。
人生の転換期①〜まいまいはどう思っているの?〜
そんな私の転換期は高校2年生。
とあるイベントに参加したことがきっかけです。
そのイベントはテーマが「中高生の想いを表現する」
音楽・ダンス・小論文などを通して、中高生が自分らしさを発揮するイベントです。
目立ちたがりの私に目をつけてくれ、クラスメートが小論文の部で声をかけてくれたおかげで、私は偶然にも初めて自分と向き合う機会を得ました。
私はそれまでの人生で何を思い、何に苛立ちを覚え、それを将来どんなことに繋げていきたいのか。
初めて人生を振り返り言語化をしました。
一人で書き上げた後、イベント支援をしてくれているOBの方々が、さらに深めるお手伝いをしてくれます。
「まいまいはこの時どんな気持ちだったの?」
「ここで頑張ろうと思えたのはなぜ?」
様々な問いを投げてくれました。
それまでの私は「自分が」どう思うかなんて全く考えたことがなく、常に人の表情をうかがって生きてきました。
だから、最初は本当にわからなくて、何も言葉が出てこなかったのを覚えています。
自分の想いなんか言葉にしたら、おかしいって思われるんじゃないか、嫌われるんじゃないか、そんな思考が頭を満たしていました。
実は言葉にするのが嫌すぎて担当のOBさんとは大喧嘩しました(笑)
今思えば、これが初めてのコーチングとの出会いかもしれません。
※当時はコーチングのコの字も知りませんでしたが。
対話を通して、少しずつ少しずつ内容を深めていきました。
とはいえ、すぐになんでもかんでも言葉にできるわけではなく、当時の小論文を今読むと、やっぱりまだ「いい子ちゃん」だな〜と思います。
それでも、私にとっては大切な一歩でした。
はじめて自分を認めてあげられた日
発表の日。
スポットライトを浴びていたため観客席はほとんど見えません。
最初の言葉を発する瞬間は本当に緊張しましたが、丸暗記するぐらい読み込んだ原稿、読み始めたあとはスルスルと進んでいきました。
そして、原稿用紙10枚の想いを話し終えた後、ふと顔をあげると会場はとても温かい拍手に溢れていました。
観客席に戻ると「すごくよかった」と声をかけてくれる人々。
「あ、私の人生って別に変じゃないんだ」
なんだか、すごくほっとしたことを覚えています。
自分の嫌いな幼少期の記憶を初めて発信し、受け止めてくれる人々がいたことで、私はようやく少しだけ自分を許せるようになりました。
(複雑な家庭環境もがっつり書いていたため、母には「恥ずかしい」とかなり怒られましたが)
そこから、周りの友人との関係も少しずつ変わっていったように思います。
他者承認を得るための見栄だらけの会話が減り、たわいもない話でたくさん笑って。
友人達は尖っていた高1時代を私の暗黒時代として笑い話にしてくれて。
とっても充実した高校生活を過ごすことができました。
大学は横浜へ上京。
1年のアメリカ留学も経験しました。
無一文から女手一つで、私を都会の大学へ行かせ、留学も行かせてくれる母親、本当にすごくないですか?
母への感謝はまた別途綴っていきたいな〜と思っています。
小さいころはいろいろあって恨んだこともあったけど、大人になった今、本当に感謝しています。
人生の転換期②〜固定観念は根強かった〜
私の2つ目の転換期は就活〜社会人1年目まで時を進めます。
就職活動をはじめた当時の私が意識したことは2つ。
・会社の知名度
・年収
世間一般で「すごい」と言われる価値観を軸にしてしまっていました。
また、留学した分、卒業も一年ズレたのですが、先に卒業する同級生達が続々と有名な会社へ入社を決めており、発動しました"見栄っ張り"。
周りへ相談もせず、一人で情報収集をしながら進めていた結果、見栄で応募した会社は全て落ちました。
最後に入社を決めた会社は、有名企業のグループ会社。
当時は有名企業のグループであることを、虎の威を借る狐のように誇っていました。(お恥ずかしい限りです…)
しかし、結果として、この会社との出会いも私の転換期になりました。
仕事ってめっちゃしんどい
今思うと器の大きいなと思うのですが、新卒にして裁量の広さが半端ない会社でした。
簡単に1社目を紹介すると、
IT保守運用をメインとする会社
配属はコンサル系の社内では異端の部署
業務はITを用いた顧客の業務改善支援、企画〜実行まで
配属早々、IT開発〜保守運用ガイドラインを0から作り、
お客様先に駐在が決まったと思ったら、いきなり客先のIT予算を作り、えらい人の承認を得る。(しかも、1対2、私1人。)
上司は普段ゆるゆるな雰囲気なのに、仕事は厳しく、作った資料は真っ赤で返される日々。
正直、とってもしんどかったです。
そして一社目がしんどかったからこそ、私は大切なことを考えるようになりました。
それが「なぜ私がこの仕事をするのか。」
一日の3分の1もの長い時間を費やする仕事が苦しいなんてもったいない。
やるならば、楽しく自分にとって意味のある時間にしたい。
そう強く思いました。
そこで改めて、自己分析、自分に向き合うことを決めました。
遅くなった自己分析
就職活動の反省を生かし、この時は一人ではやらず、twitterを駆使して人事系の方々に連絡をし相談をさせていただきました。
(当時お会いした方々本当にありがとうございました!)
その中の一人がTさん。Tさんとの出会いがコーチングへと繋がっていきます。
Tさんは自己分析のため、私の好きなこと、印象に残っている出来事、成果を出したことなどを深堀りしてくれました。
高校で発表した小論文のときよりもさらに深く掘り下げられることはとても大変で、泣きじゃくりながらの面談でした。
特に私にとって大変だったのが「強み」を見つけること。
高校時代に自分を受け止められるようになったものの、基本的には自信が無い人間なので、自分の強みなんて一ミリも思いつきませんでした。
それでも、匙を投げず、丁寧に向き合ってくれたTさん。
決して急がせず、じっくりじっくり向き合ってくれました。
そのおかげで、時間はたくさんかかったものの私は自分の強みを見つけることができました。
それが、変化しつづけること。
現状に違和感を感じたら放置せず、前へと進めること。
波乱万丈な幼少期を生き抜いたからこそ身につけた力でした。
そしてこれが、私のキャリアの軸へとつながっていきます。
その軸が「人の可能性の最大化」
私も含め、人は幼少期に身につけた固定観念や現在の環境により、自分を偽ったり、無意識に可能性に制限をかけたりしている。
そして、生きづらさを感じている。
私にとってはその「生きづらさ」や「可能性の制限」が最大の義憤であり、自分の大切な大切な時間を使って解決していきたいことでした。
自分の経験から確信を持って断言するのですが、
誰でも人は変わることができます。
例え今の自分が大嫌いでも、変わりたいと思うのならば、少しずつ自分のことを好きになることができます。
ただ、一人で変わることは少し難しく、
人との出会いや環境の変化が必ず必要であると思っています。
だから私は自分自身の経験と強みを生かし、誰かの変化を後押しできるような、そんな人でありたい。
私がたくさんの人に支えられながら少しずつ前進してきたように、
次は私が誰かの支えになりたい。
そんな想いを見つけた私は転職を決め、現職の英語学習コーチングのお仕事に出会いました。
決して順風満帆に進んできたわけではないけれど、全ての出来事が今の私を作り上げていることを考えると、自分の人生って愛おしいななんて思えます。
コーチングで水を得た魚
お世話になったTさんがコーチングを学んでいたことがきっかけとなり、私もコーチングに強く興味を持つようになりました。
そして、1社目の先輩の紹介でCTI出身の一人のコーチに出会います。
プロのコーチングを受けつつ、
一方、仕事では英語学習のコーチングを提供する。
その相乗効果は凄まじく、メキメキと自分が変化していくことを感じました。
顧客へもう一歩踏み込み、英語に対するマインドを変え、
失敗をすることへの恐怖心が少しずつ払拭され、社内で様々な提案をし、
私が介在することで起こるたくさんの変化を目の当たりにすることで、自分の強みや価値観に自信を持てるようになりました。
2社目入社前と現在とでは、全くの別人だと断言できます。
ちなみに、今もずっと同じコーチに伴走していただいており、出会ってからもう3年近くが経とうとしています。
コーチとの出会いで生まれた変化も別の機会に書きたいな〜と考えています。
コーチングの次のステップへ
そして、2022年吉日。
私は次のステップへ歩みを進めることを抱負として掲げました。
それが、CTIの受講。
3年近く伴走しつづけてくれたコーチと同じ場で、さらにコーチングのスキルを磨いていくことを決めました。
私自身がまた迷子になってしまわないように。
そして、何よりもまだ見ぬ誰かの「可能性を最大化」するために。
変化することは、簡単なことではありません。
それでも、勇気を持って向き合ったその先に、きっと今よりも生き生きとした日常が待っているはずだと信じています。
一人でも多くの方が、自分の可能性を信じ次の一歩を踏むお手伝いができるよう、今年もチャレンジを続けていきます。
実はこのnote、12月ごろに書くことを決め、結局1月の初旬に書き始め、しかし公開する勇気が出ず……。構想から2ヶ月ほども温めてしまいました。
しかし、明日からCTIの基礎コースがはじまるにあたり、ここまでの私の想いをどうしても形にして残しておきたい。
あわよくば、私のこれまでの人生が、私と似た苦しみを抱えて生きている人の励みになったら最高に嬉しい。
そんな気持ちで公開に踏み切ることにしました。
このnoteを一つの区切りとして、明日からの新たな人生の一ページも思いっきり楽しんできます。
とっても長くなりましたが、ここまで読んでくださり本当にありがとうございました!
コーチングを通し今後もたくさんの方とご縁があることを願っております。
今回のnoteで少しでも私へ興味を持っていただけた方はぜひtwitterのフォローお待ちしております☺️
余談ですが、まいまいといえばかたつむり。
まいまいカタツムリ。
カタツムリは漢字で蝸牛と書きます。
その昔「化物語」というアニメが大好きだったのですが、
その時に出てきた蝸牛のキャラクターが別名迷い牛と呼ばれていました。
迷子でいつまでもお家に帰れない。
その姿を自分自身と重ねて大好きになりました。
お家に帰れないことは悲しいんですけど、迷子になった分、たくさんの出会いがあり学びがある。
迷子も悪いことじゃないですね。
そんな思い入れから、今後もまいまいと呼ばれたい。(なんの話やねん。)
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