街にひそむ棋士

※100円マークが出ていますが全文無料で読めます


ここに、病の女がいる。

女は身の回りのあらゆるものが将棋の棋士に見える病気にかかっている。超高級腕時計の、先の尖った秒針、その永久運動を見ては羽生善治に似ていると言い、大きな振り子の壁掛け時計を見ては森内俊之に似ていると叫ぶ。壁掛け時計を譲ってくれと時計屋のおやじに懇願しては、つまみ出される日々を送っていた。

* * *

「しつこいぞ、マツモト!この時計はやらん」
マツモトは今日も時計屋に追い払われて、干からびたリスみたいな顔で商店街を歩いていた。5月だというのに陽射しが強い。ふとマツモトは、腹をさすった。干からびた挙句こんなにオナカがすいちゃって、わたし・わたし・死んじゃう・と演技を入れて、指で髪をくるくるしてリスぶると、歯をむいて手近なパン屋へ入った。

おいしい匂いが脳の先まで行き渡り、マツモトの心は踊った。


ひらくドア ひびくベル
銀のトングでつかまえる
かおる小麦はおどる酵母
果ては広がるパンの群れ
食パン、かにぱん、クリームパン、ぶどうパンにはカレーパン!


店内に客はいなかった。こんなにお伽な空間がしんと静まり返っているそのさまは、マツモトに日本将棋連盟を思わせた。息を飲み、木目のトレイ片手に辺りを見回す。耳を澄ますとパンたちの、確かに駒音が聞こえてくる。

魅入られるようにマツモトは、クロワッサンの前に立った。うずたかく積まれた山を外れて、ひときわ黄金色に輝くクロワッサンが目に留まる。それはどれより美しく、どれより先が尖っていて、どことなく羽生善治であった。


 

複雑かつ技巧、かつ繊細、デザイン性にも富み、しかもおいしそう―――あらゆる魅力が羽生のオールラウンダー感を彷彿とさせた。さくさくの生地で我らを虜に、たゆまぬバターで世界中がイチコロだった。マツモトは静かに、そしてつとめて冷静に、尖ったクロワッサンをトレイに乗せた。

もうひとつ、と思った矢先、背中に熱を感じて振り返る。そこには巨大なドイツパンが、今にも動き出しそうなドイツパンが、でも動かぬドイツパンが、無言でクロワッサンを見つめていた。慌ててドイツパンに近づけば、それはまさしく森内俊之であった。



この、背中のカーブ、不器用な切れ目、粗い粒子、表面は固く、しかし噛めば噛むほど噛むほどに、弾ける小麦が森内だった。森内の将棋は懐が深い、という表現を聞いたことがあるが、パンも右に同じだった。マツモトはさっきよりも更に冷静ぶって、一番大きなドイツパンをトレイに乗せて、こんなに大きなパンだもの、もう、何も、買えない、と思ったけれど、目を走らせれば奥の棚には佐藤康光がいたのだった。



よく分からない寸法のパンに、よく分からないものが、しかもまばらに乗っている。一体何をどうしたらここに行きつくのかとマツモトは首をひねる。つうかこの黄緑の、何? そういえば昔どこかの解説会で、佐藤さんの将棋は独特すぎて理解できないと森内さんが言っていたっけ―――思い出しながらマツモトは「くそう」と呟く。本当にこれで最後だからと言い聞かせ、正体不明のパンをトングで挟んだその瞬間、今度はイマドキな感じのパンが目に飛び込んできた。



この将棋は本当に勝ち切れるのかと皆に思わせ結局つないでしまう細い攻め、プレッツェルはどこからどうみても渡辺明だった。しかもその隣の丸い物体が、厄介だった。



どこがどう見えるとか、もうそういうことはどうでもよくて、とにかくチーズのかかった丸いパンが、マツモトには郷田真隆にしか見えなかった。プレッツェルも丸パンも、なりふりかまわずトングでつかむ。もうこれ以上は買えない―――マツモトはレジへ急いだ。途中、無意識のまま黒パンと食パンを追加した。つなぎを一切使わずライ麦を固めて作ったようなぼくとつな黒パンは三浦弘行を、一斤5000円する食パンは谷川浩司を思わせた。

もうろうとレジに辿り着き財布を探るマツモトに、店主が声をかける。

「ずいぶんたくさん食べるんだねぇ」

見上げるマツモトに、店主はぼやくように続ける。

「こんなに食べられるの?本当に?ちゃんと考えた?」

店主は、木村一基に似ていた。木村と言えばつい最近、羽生善治が持つタイトルのひとつ “ 王位 ” への挑戦権を獲得したばかりだ。果てなきリーグ戦を這い上がり、若い力をねじ伏せて、41歳は5年ぶりにタイトルを狙う。

マツモトは仮想木村に、心で問うた。

(木村パンは、木村パンはないのでしょうか?)

その問はもちろん届かなかったが、店主は牛乳をサービスしてくれて、バランスを考えないと、ダメなんだぞ、と笑顔で口を尖らせて、何やらブツブツ言いながら奥の工房へ消えて行った。ブツブツ、ブツブツ、店主はぼやく。

(木村パンだって?そんなの、味が悪いでしょう―――)

マツモトの耳には店主のぼやきが、確かに、そう聞こえた気がした。


カランカラン!
ベルが鳴り、ぞろぞろと家族連れが入ってくる。マツモトは思い出したかのように「あっ」と叫ぶと、早く帰って将棋を見なきゃとつぶやいて、夕暮れの店を後にした。


(完)


今作は構想に半年、制作に1週間かかったので、投げ銭を設定しました。100円でおまえの半年と7日間を応援してやる!と思って頂けたら、必ずや次作への糧に変えることを約束します。

投げ銭の、おまけは、メイキングページです。

『 もも名人戦 』完結時に公開した創作ノートとはまったく別の見せ方にしました。今作の着想はどこから来たのか、また取材の様子、そして作品に向き合う私の妙な写真(コスプレ)などを使って制作しています。オマケだからと言って1ミリも手は抜いておらず、このメイキングページを作るだけで休日を丸ごと潰した頭の悪い力作となっております。

投げ銭はできない、でも面白かった!と思って頂けたら、スキマークやコメント、拡散で応援して頂けますと幸いです。それらを力に今後も書き続けることを、うちのタニガワ(植木の名前)に誓います。かしこ。

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