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オマージュって、いばらの道よね

小さいころ、エレクトーンのグループレッスンとやらに通っていて、自分以外全員女子というクソみたいな状況で基本的に一言もしゃべらずに苦行に耐えていた記憶がある。しかも小学生の女子って時としてものすごく残忍で意地悪だったりするじゃないですか、あれ、なんなんですかね。まあ冷静に考えれば自分が閉ざされた世界からの異邦人みたいな振る舞いで全くフレンドリーじゃなかったから仕方なかったかもしれないけれど、あの宿題を一人だけやってこなかったときのクスクスという冷笑の心をえぐる深度は未だに忘れられませんよ。で、そこで作曲の宿題とかいう、自分が出ちゃうに決まっている難題が出されたことがあって、もう死ぬほどやだったわけです。そもそも作曲とか急に言われても出来ないし、この残酷な女子どもの中にそれを放り込むなんて、自我が融解する気しかしない。で、パクっちゃったんだよなあ曲を。FF6のね、ケフカのテーマのメロディをね。女子ばっかだし、ばれねえべと思って。そしたら出来が良すぎて先生がいいわ!ってなって迎えに来ていた母親に聞かせてジエンドですよ。「わたしもなんか聞いたことあるなーって思ってたよー先生!」って、悪魔のような(俺にはそう見えたんだからね!)笑顔で後から乗っかる女子どもが未だにたまに夢に出ます。

オマージュとかパロディと、パクリって、「これは自分の名の責任のもとに生み出した作品である」って心から作者が思っているかどうか、なんでしょうねきっと。あの時のジブンには、「これは自分が書いた!」なんてことはこれっぽっちもなくて、犯行の動機は要するに『自分をさらけ出したくない』ということだったわけだから。ガキの犯行だからこそ、そこに本質はあるなあと今思っていて、パクって「これはおれの作品だ!」っていってる人は本質的には、「自分で勝負する」のが怖いっていうねじれがあるのだと思うのだよね。

リスペクトは原作に、責任は自分の名のもとに。評価のハードルはあがり、そのジャッジはオマージュした側に下るんだから、パクリと違ってオマージュなんてもんはオリジナルより下手したらいばらの道よなあと、ワンピース歌舞伎(シネマ歌舞伎でごめんなさい再演は劇場に行きます)を見て、ふと思うわけです。ちゃんとこれは、引き取りきってやりきってて、こういうことだよなあって感じたんです。歌舞伎ってそういう意味ではものすごいフォーマットだなあと。知恵の結晶。

結局、パクリ発覚後にオリジナルを書かされた幼き自分がどんな曲を書いたのかなんてみじんも覚えていないけど、そんな人でもオリジナル曲をバンドで演奏するようになれるのだから、周りの温かい受け止め方って大事だよなって、エレクトーン教室の女子どもに責任転嫁して思う今日この頃。


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