エッセイ

ニュートラルの文体を持つこと

「あんなnote書いて、なに目指してるんですか」
ってこないだ言われたんですけど。

僕は、エッセイストになりたかったんですよね。本気で。中学生くらいのとき。文筆にエッセイというジャンルがあるってことをそのくらいの時に初めて知って。これはずるいぞと!さくらももこが人生初エッセイだったんだけど、超面白くて、だけどこれは、なんかできる気がする!とおこがましくも思いあがったのがはじまりで。ただ、だんだん気づいてきたわけです。

エッセイが面白くなるためには、人生そのものが面白くないとダメだと。

結局、自分試されるし、なんならほかの文筆よりも、一番、そのままでちゃうじゃん自分が、って。すーん。試されるの嫌いだなあ…とか。まあ、そんで、それからも時代に恵まれてmixiだとかブログだとか、いろいろ形式は変えながら、文章を書くのが続いているのは、スキだからということもありつつも、b自分の中の感覚として、「なんら目的のないエッセイを書くことによって自分のニュートラルな文体を持つこと」は大事だなあというのがあります。

上司を説得するとか、クライアントと合意形成を図るとか、イベントの告知文を書くとか、飲み会の調整するとか、日ごろいろーんな目的のある文章を長短書いてますけど、なんでもなく、無目的に、自分のニュートラルを持つことが、その人らしい文章をつくるんじゃないかなあとか、自己弁護的に思っております。

はい、まあ、そんなことはさておいて、エッセイの連載がどこかで持てるように頑張りますという本音。

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