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【アマチュア大喜利プレイヤー列伝】 ゴハ ー”勝ちたい”から、”楽しみたい”へー

はじめに

「大喜利やってる人を紹介する文章書きたいな。めっちゃ取材して。」

筆者のこのツイートに、「いいね」が6個ついた。後押しにしては些細な数だが、0でもやろうとしていた身としては非常にありがたい。

「自分が大喜利を始めるより前の界隈の空気や、他人の大喜利観を少しでも知りたい」という純粋な興味と、「誰もそんなことしていないから面白いのではないか」という打算の元、構想を固めていった。

一人目を誰にしようかと考えた。筆者と遠くない存在で、歴と実績があり、こういった見えない企画でも面白がってくれそうな人と、脳内で検索をかけたところ、とある関西の大喜利プレイヤーの名前が残った。それがこの記事の主役、ゴハである。

ゴハは大喜利プレイヤーとして関西や関東、九州そして広島の大会に出場し、また大喜利会「ホシノ企画」の主催者として、様々な企画を発信している。

その鳥人、否、超人的なバイタリティはどこから来ているのか、根本にあるモチベーションは何か、そもそもいかにして大喜利と出会ったのか。何度も会っているが、その辺りのことを全く知らない。良い機会なので、じっくり話を伺うことに決めた。

面と向かって取材の依頼をする予定だったが、情勢が情勢なので、TwitterのDM上で承諾を得て、取材の模様はSkypeで録音することになった。

こちらもインタビューに関しては素人とはいえ、さすがに丸腰で取材に挑むわけにはいかない。twilogでゴハのツイートを遡り、準備を整えた。


勝てるようになるまで

2020年4月7日16時、インタビュー開始。

「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
軽い挨拶から始まり、まずは生大喜利デビューした日にまつわる話を聞く。

「ツイート遡ってみたんですけど、生大喜利デビューは2011年で間違いないですか?」
「それが、そうじゃないんですよ」

話を聞くと、Twitterを始めるよりさらに前、2007年に「転脳児杯」という大会に出たのが最初だという。

「主催の人が、当時mixiのいろんなコミュニティにダーッと宣伝して回ってはるような感じで、それをbaseよしもとのコミュニティかどっかで見て、ちょうど大学卒業して関西離れるタイミングやったんで、『一回だけ出てみよう』と思った」

「誰でも出られる、大喜利のトーナメント」に興味を持ち、出場。結果は「全然どうにもならなかった、予選で多分2答ぐらいして全然ウケなかった。」決して華々しいデビューではなかった。

大喜利にハマるかどうかは、初回の自分の成績が大きく左右する。その時ゴハは「自分に大喜利とか絶対向いてないなー」と思い、そこからコンスタントに大喜利をするまでにはならなかった。

その数年後、「いろいろあって」関西に戻ってくる。お笑いライブを観に行くようになり、Twitterを使い始める。そのタイミングで、お笑い好きであり、関西のベテラン大喜利プレイヤーであり、一般人ながら一部で有名なひらたいの存在を知り、アカウントをフォローする。

当時は直接の面識は無かったが、ひらたいが所属する大喜利団体「純豆腐の会」が配信していたUstream上の大喜利番組を観ていた。そこで「一般の人らで集まって大喜利してはんねやなー」と、アマチュア大喜利の存在を認識する。

ひらたいがその配信や自らのTwitter上で、当時としては珍しかった関西の大喜利大会「カワシモ杯」「鴨川杯」の宣伝をしていた。

当時、カワシモ杯は京都で行われていた。会場は、ゴハの通勤経路に存在した。そこで「行こう思たら行けるな」と思い、出場を決める。2011年11月のことだった。

「そん時は、前になんもわからんと出てた時よりは、『笑い飯・千鳥の大喜利ライブ』っていうのを定期的に観に行ってて、『あー大喜利って面白いな、自分ももう一回やってみたいな』と考えてた時やった」

16人で予選を行い、8位以内に入れば1対1の本戦トーナメントに進めるというのが、簡単なカワシモ杯のルール。その時のゴハの成績は「12,3位くらい」で予選敗退。その後「やっぱりレベル高いな」と思いながら本戦を観覧した。大喜利をすること自体は面白いと思っていたが、「向いてるか向いてへんかで言うと向いてへんのやろなー」というネガティブな自己評価が頭をよぎった。

その時の出来事で、未だに覚えていることがあるという。

結果発表の場で、予選通過8位の出場者が発表された瞬間、体の大きな中年男性が「おっしゃー!!初めて通過したぞー!!みんなー俺がいよいよ通過したぞー!」と歓喜した。当然面識の無いゴハは「うっさいなこのおっさん」と思いながら見ていた。

しかし、その中年男性は、対戦相手が決まった瞬間に「終わったー!俺絶対勝たれへんやんけ!もう終わりやんけ!せっかく本戦まで行ったのに一回戦で終わりやんけ!」と絶望しながら騒ぎ出した。ゴハは再び「うっさいなこのおっさん」と思った。

さらにこんなエピソードが。当時別に大喜利の知り合いがいるわけでもないゴハは、特に誰かと会話せず、大喜利をして帰ろうとしていた。「ありがとうございましたって言うか言わないかぐらいのタイミング」で主催者の一人である店長という男が「良かったらまた来て下さいねー」とゴハに声をかけた。

「初めての人に声をかけるとか、未だにそういうことようせえへん」ゴハにとって印象深い出来事だった。

その1,2か月後、カワシモ杯より大きな規模の「鴨川杯」が行われた。出場したものの「前とは全然比べものにならないくらい重い空気」に圧倒されてしまう。筆者も2度経験しているが、鴨川杯はシビアなルールが出場者に重くのしかかる、「和気あいあい」とか「楽しくたくさん大喜利」とは無縁の大会である。厳しい大会だけあって、優勝者の名誉は計り知れない。

「自分が勝てるようになるっているビジョンが全く見えないなーと思った」

そこから1年が経過し、再びゴハが大会に出場するのは、2013年1月。きっかけは、元日に店長から届いた一斉送信のメール。そこに書かれていたのは、その年の1月と2月に行う「カワシモ杯」「鴨川杯」の案内だった。

店長のマメな配慮に驚きつつ、1月のカワシモ杯にエントリーを決める。

出場したものの、まだ初心者の範疇であり、ブランクもあるゴハは、その時も好成績を残せなかった。しかし、今後に繋がるこんなエピソードを語ってくれた。
「予選で勝つとかそんな感じじゃ全然ないんですけど、そん時にまずひらたいさんと出会うんですよ。その辺りからちょこちょこ大喜利の知り合いが出来るというか、話しかけてくれる人が出来たのが大きかったですね」
大喜利に限らず、趣味の場で知り合いが増えるというのは、重要な出来事である。

2月、「鴨川杯」が開催され、「もう一回(大喜利に)行ってみよう」と思い出場。予選で負けてしまうが、それで終わらなかった。敗者復活の一回戦で、初めて勝ち上がることに成功したのだ。本戦には行けなかったものの、嬉しい出来事だった。

翌月、カワシモ杯が2回行われた。一度目のカワシモ杯に出場し、上位8人の中にギリギリで残った。自分のスタンスが少しずつわかってきた時期だとゴハは語る。


ホシノ企画誕生

2013年3月、当月2回目のカワシモ杯が開催された。予選開始前に、まだ面識の無い3人の参加者がウォーミングアップを兼ねた大喜利をしていた。「こんなスーパーマリオは、蟹のコントローラーの方が遊びやすい」という奇特なお題で大喜利をする様は、ゴハの目に異様な光景として焼き付いた。

予選終了後の休憩中に、ウォーミングアップをしていたうちの1人に「予選面白かったよ、悪くないね」と声を掛けられる。後々共に大喜利会を運営することになる、ぱとらっことの初遭遇である。

後日、「激安串カツぼったくり」という串カツ屋に、カワシモ杯に参加していた面々で行くことになる。そこは店主が店の名で大喜利サイト「大喜利PHP」(現在は閉鎖)に参加していたため、大喜利界隈で有名な存在だった。

共に入店した鴨川杯運営陣が会話する横で「僕と麿Kneeさんとぱとらっこさんの3人で、ずーっとめちゃくちゃ大喜利してたんですよ」
大喜利をやっても良い店なのはなんとなく理解できるが、当然のようにお題と道具がその場にあったことに、筆者は驚きを隠せなかった。

その日の帰り道、ぱとらっこにカラオケ店での大喜利会に誘われる。行ってから分かったことだが、その会は、延々と二人一組でお題に向き合うものだった。何度もパートナーを変えながら、2か所穴埋めお題に何時間も挑んでいった。「負けたらそこで終わり」となる大会の経験がほとんどだったゴハにとって、「むっちゃくちゃ楽しかった」会だった。
「あの日のことがすごい転機やった気がしますね」

数日後、「鴨川タッグフェス」のエントリーが始まる。通常の「鴨川杯」は個人戦だが、今回はタッグを組んで出場しなければならない。誰と組もうか悩んだゴハは、先述のカラオケ店での大喜利会で、麿Kneeと組んでウケたことを思い出す。

ゴハからの誘いに麿Kneeは承諾、タッグが結成された。エントリーの際には、タッグ名を決めなければならない。ここでふと頭に浮かんだのが、二人を評したぱとらっこのこんな発言。

「スローカーブみたいな大喜利をするんやな」

スローカーブで有名な選手といえば、星野伸之。タッグ名は「星野伸之」に決まった。たとえ同様、ネーミングも変化球だった。

鴨川タッグフェスまでは時間があったが、当時は今ほど生大喜利が活発ではなかったため、頻繁に大喜利会は行われていなかった。
「自分からやった方が早いな、自分からやった方が良いんやろな」と思ったゴハは、麿Kneeを誘い、大喜利会を企画する。

会の名前は、タッグ名「星野伸之」から取って、「ホシノ企画」。現在のホシノ企画は、様々な大喜利を楽しむ会となっているが、2013年6月に初めて開催したホシノ企画は、タッグフェスに備えて、タッグお題に延々取り組む会だった。

ツイプラで募集をかけ、当日を迎えたが、ある問題が発生する。大喜利の道具を用意しておらず、持参してくださいといった案内もしていなかったのだ。今でこそ多くのプレイヤーが会を主催し、そこかしこに「大喜利会を開くとしたら大体こんな感じ」というノウハウがある時代だが、当時は違った。「お題とかも、よく考えたら作ってきてないな」という状態だった。

ホシノ企画は、当初はゴハと麿Kneeの二名による会だったが、後にぱとらっこが加入する。その時の経緯を聞いてみる。

一回目のホシノ企画にも、ぱとらっこは参加していた。生大喜利には、回答者の指名、お題読み、ツッコミなどの役目を持ったMCが原則必要である。ぱとらっこは、MCの能力に長けていた。

「僕や麿KneeさんがMCやるよりもやってもらった方が助かるし、僕らも出られる側になれるんで」

その流れもあり、ホシノ企画にぱとらっこが運営として入ることになる。

2回、3回と回を重ねるごとに、最初にウォーミングアップ、後半は企画性のある大喜利といった、現在のホシノ企画の原型が出来上がっていった。

「ホシノ企画が生大喜利デビューの場」という人物は、間違いなく多数存在する。かくいう筆者も、その一人である。2016年6月に開催されたその会に参加し、生大喜利デビューを果たした。独自性のある企画で参加者を楽しませる、"スマイル"溢れる場となっていた。"極楽はどこだ"と聞かれたら、「ここだ」と答える準備は出来ている。


「自信ないキャラ」を辞める

2013年9月14日、「戦×オオギリダイバー」が開催される。当時の「戦」は、一年に一度行われる一大イベント「戦ー大喜利団体対抗戦ー」とは、団体戦であること以外はルールも勝手も異なる大会だった。これに出場することを決めたゴハは、さっそくメンバー集めに奔走する。麿Kneeとチームを組むことも考えたが、「麿Kneeさんとニコイチのイメージが付きすぎるのも良くない」と、ベンチウォーマー、ノディ、らーゆといったメンツを誘い、チームを結成した。

この時期ゴハは、コンスタントに大会には出場しているものの「(自分は)勝ってる人のイメージじゃなかった」と、半ば悩みながら出ている時期だったという。「ずっと出ててずっと勝ってないと、ずっと勝たない人のイメージになる」ことを危惧したゴハは、あることを実行する。

それまでゴハは、大会の自己紹介の時、「皆さん強そうなんで、僕はダメやと思います」のような、行き過ぎた謙虚な発言を頻繁にしていた。ハードルを下げる手段として使用していたが、「これを変えなあかん」と思い、自信無さげな挨拶をやめるようにした。

「戦×オオギリダイバー」の直前、現在は「大喜利未来杯」を不定期で開催する、やまおとこ主催の「オオギリダイバーリーグ」という練習会が行われる。カワシモ杯同様、16人で予選を行い、上位8人でトーナメントを行う。”自信ないキャラ”を辞めたゴハは、無我夢中で回答を出し、予選を突破する。

本戦トーナメントが始まる。初戦の相手はソバ2。この時点でゴハは「終わった」と思ってしまう。歴も実績も申し分ないソバ2は驚異の存在である。しかし、なるべく動揺を顔に出さず挑み、勝利する。「自分の中であり得へんことが起きてる」と、感想を語る。

続いての相手は、予選をぶっちぎりで通過し、現在も圧倒的な強さで界隈のトップをひた走る関東の大喜利プレイヤーネイノー。ここでもゴハは勝利を収めた。

最終的に決勝戦でベンチウォーマーに敗れるものの、ここまで勝ち進んだのは「自信無いです」といった発言をやめた作戦が功を奏したと言っても過言ではないだろう。ちなみに、別ルートでノディ、らーゆも本戦に残っていたそうだ。

そして迎えた「戦×オオギリダイバー」。結果は決勝戦で辛くも勝利し、優勝した。
「自信じゃないですけど、この人らと一緒に大喜利出来る人らの一人になれたなと思った」

「本戦進出」や「優勝」といった、自身の活躍が記録に残るのは初めての経験だった。

この辺りから、関西以外の地でも積極的に大喜利をする、ネタをやる会を開くといった、「『独自のことを勝手にどんどんやっていきますよ』みたいな感じの自分のキャラ」の土台が完成する。


関西大喜利新人賞

「賞金・・・・8万円です!」

2018年7月8日、大阪のなんば紅鶴という小さなライブハウスに、絶叫に近い驚きの声が響いた。

この日、行われたのは「関西大喜利カレンダー presents 関西大喜利新人賞2018」。出場できるのは、2015年1月1日以降に生大喜利デビューした、主に関西で活動しているプレイヤーだ。「着信御礼!ケータイ大喜利」のレジェンドオオギリーガーであるIkoriha Yimiran(通称イコリハ)が立ち上げた、新人のための大会である。

お笑いの賞レースよろしく、5人の審査員が出場者に点数を付け、コメントをする。そのうちの1人がゴハだ。第一回となるこの大会で、最優秀新人賞の称号は、決勝戦でとうふ第三軌条との死闘を制した吉永に贈られた。

Ikoriha Yimiranは、吉永に賞金として8万円を贈与した。その破格の金額が発表された時のことを、「本当にみんな頭がおかしいんじゃないかと思った」とゴハは語る。審査員にも知らされていなかったのだ。

大喜利大会で、出場者を審査することは多々あるが、「回答が面白いと思ったら手を挙げる」、「面白かった方に拍手する」といった、比較的大勢のうちの一票として機能する場合が多い。関西大喜利新人賞は、事前に審査員が発表された。「1問目の時のこの人は何点だった」と、割とはっきりとした評価を下す、責任のある審査が求められた。審査員を務めてみての感想を聞いてみる。

「いろんな人の動画をもう一回見たりして、この人はこういう所が独特で、こういう風に面白いんだなみたいなことを改めて考える時間があったので、僕も個人的な収穫があった」

これまでに無い大喜利との向き合い方は、大会の存在価値も相まって、面白い経験となった。


夏の陣、優勝

ご存じない方もいると思うが、ゴハは”師匠”である。大喜利の弟子がいるわけではない。現在のゴハに授けられた称号なのである。

2019年9月8日、「BBガールズの師匠と呼ばせてください!頂上決戦2019夏の陣」という大会が行われた。一つ一つ説明していこう。まずBBガールズとは、PALMTONE AGENCY所属の音楽ユニットであり、彼女らがパーソナリティを務めるインターネットラジオ番組「BBガールズのまだまだGIRLでいいかしら」内で、大喜利コーナーを放送している。この大会は、普段このコーナーに投稿している人や、そうでない人が、生大喜利で勝負する。

大会中は、基本的に楽しげな空気感が充満しているが、準決勝、決勝と進んでいくにつれて、加点式というルールも乗っかり、「ガチの大会」の様相を呈する。ここで優勝した者は、賞金と共に、”師匠”の称号が渡されるのだ。

この「夏の陣」、決勝に残ったのは、かつて”師匠”の称号を得た木曜屋、現師匠のCRY、「関西大喜利新人賞2019」で優秀新人賞に輝いた手汗、そして、ゴハである。3問行い、1問ごとに点数の低い者が脱落し、最後のお題では一騎打ちになるというのが決勝のルール。

決勝戦開始前、意気込みを聞かれたゴハは、「大喜利をして、面白い答えをいっぱい出して、たくさん点取ったら、誰でも優勝出来るっていう夢を見せますよ」と、いつになく強気な発言をする。

1問目が始まる。とにかく手数を出さないと始まらないルールの中、手を全く緩めないCRYと木曜屋。そこにゴハもしっかり食らいつき、なんとか1問目での脱落を回避した。

2問目開始時点で、ゴハはCRYと木曜屋に負けていたが、とにかく数を出し、ポイントを稼いだことで、CRYを上回ることに成功する。

この日最後のお題。対戦相手は木曜屋。回答を出すスピードは圧倒的で、本大会のルールで最強の呼び声も高い相手に勝つため、ゴハは我武者羅に脳をフル回転させ、相手の速度を超えようと答え続けた。

結果は、49対45で、ゴハの勝利。思えばこれまで節目節目で戦い、勝てずに終わっていた相手でもある木曜屋に初めて勝利したのだ。会場にロッキーのエンディングテーマが鳴り響く中、ゴハは叫んだ。

「お前らみんな優勝出来るぞー!」


この人に驚い

大喜利をやっていて気になるのが、他人からの評価である。単純にゴハが面白いと思っているプレイヤーを知りたかったので、聞いてみることにした。

「『なんでこのお題からそれが来た⁉』みたいな人がすっごい面白いし、魅力的」

2019年7月、「『N2』7th”アンカテ”」が開催された。基本的にフリーエントリーとなっている「N2」だが、その時はゴハが出場者をオファーする形となっていた。「uncategorized」をテーマに招集がかけられたメンバーは、諏訪子の人、スタピー、夢雅一片、ワッツ、ヒゲ王子、宇多川どどど、ベンチウォーマー、ギャラ☆の8名。

組み立てられたロジックを武器にお題へ挑むゴハにとって、突然変異とも言うべき回答を繰り出す8名は、驚きの対象だった。

「戦2020-大喜利団体対抗戦-」は延期となってしまったが、現時点でゴハが声をかけて結成されたホシノ企画のメンバーは、ベンチウォーマー、諏訪子の人、えりんぎ(目深)、ヒゲ王子である。とある関東の大喜利プレイヤーが「ぶっちぎりで意味わかんない」とツイキャス内でこぼしていたチーム編成だが、大半が「アンカテ」でオファーしたメンバーと考えると、まとまりのないチームの謎も、多少は解けるかもしれない。


モチベーションの変化

大喜利は時として、真剣な競技に顔を変える。その勝負の場に何人ものプレイヤーが挑み、勝利に歓喜し、敗北に悔恨し、日々研鑽されていく。そこには「勝ちたい」「活躍したい」という欲がある。当然、大喜利を始めた当初のゴハもそうだった。

だが、今のゴハを俯瞰で見る限り、勝利よりもまず自分が楽しむことを優先しているように映る。自分の出したい回答を笑いながら出すという姿勢から見ても、それが顕著だ。

一体何がきっかけでモチベーションや大喜利に対する挑み方が変わったのか?

2015年3月に行われた「オオギリダイバー”フォース”Ⅲ大阪」。ゴハはこの大会で、本人曰く「ヌルっと」優勝する。個人戦での優勝は初めてだった。

その日の終わりに、オオギリダイバー主催のお手てつないでから、「いつかチャンピオン大会やるから出てくださいね」と声を掛けられる。まだ日程すら決まっていないが、「チャンピオン大会出た時に頑張れる人になりたい」と、静かに目標を定めた。
そして来る2016年10月に「オオギリダイバー26.8チャンピオンズカップ・セミファイナル大阪」が行われた。

この日様々な対戦カードが組まれ、最後の試合が、ゴハと罠箱のタイマンだった。罠箱は東北の大喜利プレイヤーで、ここ数年は生大喜利の場に足を踏み入れていないが、”強い”ことが周知の事実として語り継がれているプレイヤーである。

結果的に、ゴハは罠箱に1ポイントの差で惜しくも敗北する。その時のことをこう語ってくれた。

「大喜利で活躍できる人になりたいみたいな感じで行くと、多分僕のMAXはここなので、ちょっと考え方とかモチベーションを変えなあかんなと思った」
この試合を引き金に、「勝ち負けどうでもいいので、楽しく自分の言いたいことを言う」方向に一気に振り切れる。さらに、このポジションを目指すうえで、具体的に理想として掲げている人物がいるという。

「スズケンさんの感じが僕はすごい良いなと思ってて」

スズケンは関西の大喜利プレイヤーで、明るいキャラクターから愉快な回答を繰り出す、ひたすら陽の空気を身にまとった人物だ。勘の良い読者はもう気付いているだろう。2011年のカワシモ杯で「通過したぞー!」「もう終わりやんけ!」と騒いでいた中年男性こそ、スズケンなのである。

スズケンは、絶対的に強い、必ず勝つプレイヤーではないが、本人にしか出せない答えを出し、場を湧かせる。勝っても負けても、観る者に「面白かった」という印象を残して帰る。

「ああいう感じの人に、ああいう感じのスタンスになりたいなっていうのはずっと意識してます」


おわりに

ゴハのプレイヤーとしての強さと、主催者として楽しめるものを提供したいという”欲望”の土台になっているものが、今回のインタビューで、少しだけわかった気がする。

”勝ちたい”という思いから脱却し、”楽しみたい”へと舵を切った。「あなたは大喜利プレイヤーです。どのようなスタイルで続けていきますか?」という正解の無いお題に、自分なりの回答を出したゴハだが、随所で勝利への渇望を、恥じらうことなく吐露する。そういった貪欲さも、自身を強くさせている一因だと筆者は睨んでいる。

どちらが偉いというわけではないが、まだ勝利への執着を捨てきれない筆者の目には、ゴハの存在は輝いて見えた。

記事を読んでいただき、誠にありがとうございます。良かったらサポート、よろしくお願いいたします。