優生思想とか格差社会とか、に対して思うこと

最近、「優生思想ってなんだろう」と考えさせられるニュースが多発している。ある音楽家の発言が物議をかもしたりとか、難病を患った人が亡くなった話とか。

どの子供も、親に対して「なぜなに攻撃」で質問攻めにする時期があるんじゃないかと思う。ひとはどうして生まれるの。どうして結婚するの。どうして子供をもつの。持たない人はどうなるの。死んだらどうなるの。そのほかのあらゆること。 その時に耳にする回答は、本人の価値観に少なからず影響を与えることは間違いない。
たとえば、私が幼少期になぜなに攻撃をした末に耳にした言葉はこんな具合だ。「ひとが子供を産むのは、生物としての使命だからだ。」

ほかにも「老後に介護してくれるから」といった、「勉強がんばってテストでいい点とればご褒美におもちゃを買ってくれる」かのようなワードも耳にした気がするけれど、とりあえず今日はこの言葉を紐解いて考えていきたい。
生物の歴史というマクロな視点で考えれば、動物も植物も、たしかに雄と雌は子孫をつくり、優秀な遺伝子をもった子孫が生き残り、その生存競争から外れた弱いものは消えていく。子孫を残して繁栄させていくことは生まれながら細胞レベルに強くインプットされているはずである。という主張を、私はそこから読み取った。
そういう思想が根幹にあると、たとえば障害をもって生まれながらに子孫を残すことが不可能であったり、異性を愛することがない人間というのは、生存の原理からは外れた「エラー」の存在と解釈されるのかもしれない。

でもさ、ちょっと立ち止まって、冷静に考えてみてほしい。ヒトという生物にも本質的にそなわっているはずの「資質」があるからといって、それは、人間が感じる生きがいや幸福といった感情を犠牲にしてまで優先されるべきものなのか?「使命」って、だれのためにあるのか?

「お葬式」や「お墓参り」は誰のためにあるのか、というのも、ずっと疑問に思っていたテーマだった。実家には仏壇があり、中高時代はキリスト教の学校で育った私は「神様も仏様もいないし、死んだ人の魂なるものも存在しない」と思っている。
そんな私がお葬式や墓参り、お祈りに対して出した答えは、もう「いまここ」に存在しなくなった亡くなったその人のためではなく、周りにいる家族、親族のためにあるんじゃないかということだった。
去年、祖母が亡くなった。10年ぐらい会っていなかった。本人は遠方に住んでいるからと私たち家族に気を遣って「忙しいだろうから来なくていい」と常々言っていたというが、ベッドに私の写真が置かれていたという話をきいて、なんで国内でたかだか片道3時間ぐらいで行ける距離なのに私はこれほど長い間会わないでいたのだろうと後悔した。お葬式にも忙しかったら無理してこなくてもいい、とも言われたが「来てくれてありがとう、祖母も喜んでいると思う」と叔母や母からいわれて、なんか違う、それは遺された人が「そう思いたい」だけだと直感的に思った。

お盆やお彼岸のお墓参りはどうしてするの?と親に尋ねたことがある。そうすると、「死んだ人の魂が戻ってくるんだよ。だから必ずお参りしないといけないの。」という。
死んだ人はもうすでに存在していないので、故人がこれから先「どう思う」かについて考えるのはナンセンスであり、あくまでイベントごとは遺されたひとの心の平和を保つための儀式なのだと思う。それが結果的に、社会的にその人が生きた証をつないでいくということになる。だから、イベントが無意味だとは思わない。ただ、「魂がある」ということを無邪気に信じるというよりは、「そうやって考えた方が遺されたわたしたちが幸せに暮らせるよね」と私は私なりに解釈している。

そうやって子供のころに親にぶつけた疑問は、スッキリ晴れないままずっともやもやと大人になったいまも残り続け、こうした昨今のニュースをみるにつけ思い出す。結局のところ、優生思想なんて押しつけだ。だれだって自分なりの幸せを追求したいし、それを他人の価値観が「こっちの方が優れている」「こっちの方が正解」だなんて押しつけていいという証拠なんてどこにもない。客観的真実なんてないからだ。

格差とは何か。あらゆる意味ですべての人は異なって生まれてくる。国も性別も経済力も体格も。勝ちも負けもないはずで、ひとの命はひとしく大切に扱われるはずであると、小学校あたりで習う。だとしたら何故こんなに不平等で、なぜこんなに多くの人が不幸を感じているのか。それを解決するために、自分にできることは何か。

ひとりの人間にできることなどたかが知れているけれど、私が思っていることは、自分の価値観が絶対だと思って押しつけないこと。それと、異なる価値観の人の言うことや、異なる環境に置かれた人の目には何が写っていて、何を感じているかについて知ろうとすること、これが大事ではないかと思っている。そこから自分にできるアクションを考えて、個々人ができることをすればいい。そう思う。

自分の価値観が偏った、間違ったものになっていないか、自分自身を疑う必要もあると思う。それをアップデートしていくことも大事。
逆に、そうやって誰もが間違うこともあるから、そういう間違いに寛容で、アップデートを促すような社会であってほしいし、そういう人間でありたいとも思う。

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