見出し画像

関西への小さな旅③7月30日の記録、急逝した彼女のこと

2泊3日のわずかな旅の、最後の目的は、古い友人たちと再会することだった。

7月の中旬、関西行きを決めたあと、Tから数億年ぶりに連絡が入った。共通の友人であるNが、死んだというのだ。

死んだ。
意味がわからなかった。
あまりに突然すぎた。
驚くことしかできなかった。

20代の最後の頃、よく集まって飲んでいた6人組のひとりだった。看護師を辞めて、結婚し、ネイリストになって、子どもは確か3人いたと思う。

羽目を外したがって、向こう見ずにはしゃいだり、思い通りにならないことには大きな言動をとったりして、だけど内側にはナイーブさがあった。自由を愛していたが、自由の意味なんて本当のところは誰もわからなくて、だから俺にはもがいているようにも見えて、良くも悪くも子どものように映った。けれども……

後に知ったことだが、なんでもひと月前の6月、自転車に乗っていて、どういう弾みか、転倒して頭を打ち、夜中に容態が急変したという。

なんてあっけない最後なんだろうか。

そんなことで死ぬのか、なぜ、と、誰も答えられないのに理由を問いたくなる。彼女のために何ができただろう、と、振り返っても戻らない過去が分厚く隔たる。

死者を前に、生者はただ、弔うことしかできない。
そしてまた思うのだ。悲しみに暮れる生者の顔を、死者は果たして望んでいるのだろうか、と。

メンバーのAが京都に住んでいて、関西に行くついでに久々に会おうということになり、ちょうど大阪に旅行に来ていたTと、合流することになった。

2人も母になり、ひとりずつ子どもを連れてきていた。小学校の3年生と2年生。うちは1年生だから、見事に1年違い。子どもがいるとどうしても子どもが主役になって、親はゆっくりと話せなくなる。そんな、あたふたも、わかっていてそうしていて、大変だという共通項を互いに味わう時間が、ゆっくりと過ぎて行った。

Nがもしいたら、同じように子どもを眺めながら、他愛のない会話をして、同じ時間と場所にみんなが着地している、みたいな、昔と変わらない過ごし方をしたんじゃないだろうか。

結局、俺たちは、あの頃からなにも変わっていないのかもしれない。

帰路、前日の午前中、太陽に打たれながら歩いた、須磨の海を思い出していた。

神戸は海と山が近く、気候が濃縮している。人々や、植物や動物たちは、そのダイナミズムを自分のなかに咀嚼して、暮らしている。

大阪や京都と違う、地形という存在の大きな街。そのせいで都市にゆとりと隙間があり、比較的風の通る距離感が保たれている。

海は、丁寧に整備された広い砂浜に隔てられて、少し先のところで、ゆっくりと動いていた。目に痛いほどまぶしい浜で、ビーチサッカーを練習する子どもたち。秋のような雲が浮かぶ空を、急がずに飛んでいく鳥たち。海と人と鳥と、生命が奏でる音。

Nが住む鎌倉も同じような地形だった。一度みんなで家に行ったことがある。急な坂の多い街だった。その坂で、転んだのだろうか。


神戸とはまったく違う景色で、飛行機の窓から見た長野は、見事に山だらけだった。山の隙間を縫うようにして、町がつくられている。

帰ってきた。
いつもの日常が、始まった。


◄前回の記事


〔八燿堂より:サポートのお願い〕

よろしければ、八燿堂の活動にサポートいただけたらうれしいです。金額はご自身のお気持ちのとおりに、任意でご指定ください。いただいたお金は、本の印刷費やポッドキャストの制作費、フライヤーなど宣材物の制作費などにありがたく充当させていただきます。

※以下のリンクから、任意の金額とクレジットカード情報を入力ください
(stripeという、世界各国で使用されているオンライン決済サービスを利用しています。いただいた個人情報などはstripeが管理するため、八燿堂は情報を所有しません)


多くのご支援ありがとうございます。木々や星々は今日も豊かさを祝福しています。喜びや健やかさにあふれる日々をお過ごしください。