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人工天然

母は、勉強ができればいいんだよ、と教えられて育てられました。祖母はいわゆる教育ママだったということです。学校の勉強だけでなく、そろばん、ピアノ、書道など多くの習い事に通い、夏休みの自由研究は周囲が工作なんかをしてくる中、ひまわりの観察やシリカゲルの研究などをやって、毎年地域の科学作品展で金賞をとっていたそうです。その功績の証は、今も母の実家に飾られています。

でも母は、それらすべて「やらされた」「仕方なくやっていたけどほんとうはやめたくて仕方がなかった」と言います。

祖母が注力したのは勉強だけだったので、運動はまるでできず、母の大嫌いなものでした。

そして、勉強ができることが素晴らしい、正しいことが通るものだ、という祖母の考え方は母の心にまあしっかりと染みつき、これが周囲との関係に悪影響を及ぼして、中学のときにはいじめにあったそうです。

そうやって、大学生になって家を出るまで祖母にしばられてきたことがとても嫌だった母は、子育てにおいて祖母を反面教師にしていました。わたしや妹に勉強を強いることはなかったし、学校の成績よりも大事なことがあるんだよと教えられてきました。また、運動が苦手で嫌いだった自分と同じ思いはしてほしくないと、小学2年生のとき、わたしをスポーツクラブの見学に連れて行き、運動する機会を与えてくれました。


そしてなにより、わたしが昔から母に言われてきたのが、

・勉強ができてもアピールしない

・リーダーとか、学級委員とかいう目立つ役はたたかれるからやらない

ということでした。

勉強ができるだけではだめ、人の気持ちがわかったり、感謝できたり、ごめんなさいが言えたり。そういうことも大事。むしろ、そういうことの方が大事。

正しいこと、道理が通っていることがいつもその場で通るとは限らない。だから、たとえ正しくても人に伝えるには言い方に気をつけなければいけないし、わざわざこちらが言う必要がないときもある。

母は勉強はそれなりにできた、ので、学校で自分はすごい人間だと思っていたのでしょう。すごい人間が正しいことをいうのだから、周囲が聞いて当たり前。そう考えていたのだと思います。

そんな行動が間違っていたと今の母はわかっていていて、だからこそ、娘はそうならないように、もっと社会と平和に生きれるように、導いてくれたんだなあって、とてもありがたく思います。

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実際のわたしは、のほほんとした性格やふるまいで、周囲との人間関係に母ほどは苦労しませんでした。

母は「あなたはお母さんと違って周りとうまくやっていけてるね、その天然なところで」とよく言いました。

「天然ボケ」の天然です。

たしかに、わたしの性格はもともと周囲と平和にやれるような、やわらかいものだったかもしれない。

でも実は自分で演じていた部分もあって。

自分をちょっとバカっぽく見せたり、がんばってつっこまれるようなことを言ったりしてしまう。親しくない人と話すときや、自分が緊張している場面だと余計に。

ほんとはわたしはくそ真面目で冗談なんて言えなくて、人の冗談も間に受けてしまう。曲がったことが嫌い。
自分がそんな人間であることも自覚していました。

矛盾しとる!わざと演じてもいいんか??????????????ほんとうの自分はどこーーー!!


ところで、「人工天然」という言葉を思いつきました。(こうやって話が飛躍するの直したいです)

見た通り、人工と天然という全く逆の言葉の組み合わせです。

これが先述の演じている天然を一言で表すのにぴったり。これこそわたしじゃん。

ほんとのほんとにばかなことをいうときもあります。

でもそうではないときもある。

こんな性格に名前をつけられて、それだけでも少し落ち着きました。

実は母にも妹にも見破られていて、母には「天然な面もあるけどそれだけじゃない」、妹に至っては「天然じゃなくない?」って言われました、、

だからこの「人工天然」という性格は、一つの処世術かもしれません、母が教えてくれた。(ここでやっと前半とつながります)

だから別に否定することなく、ほんとうに天然の自分も、ちょっとがんばって人工的に天然になっている自分も、どっちも好きになればいいんだと思います。

生きていくすべです!わたしの!


だからこれからもどっちも持ち合わせて生きるよ~

P.S.

サムネイル画像を「人工」で検索したら、「人工的な青い光で照らされた姿は幻想的。」というコメントがついたクラゲの画像を発見しました。

ありがとうございます! 明日の朝ごはんはちょっと豪華になります!