バケットとかバタールとか

パン屋のスタッフですが、時給1300円です。
場所は六本木です。

人材派遣会社からメールが届いたとき、すぐにやりたいです、と返信した。夏の短期アルバイトを探す中、とにかく家から近くて楽なところがいいと思っていたものの、やはり『六本木のパン屋』 という響きにはくらくらした。ミーハーだとわかっていても、想像力掻き立てられる『六本木のパン屋』に心ときめかずにいられようか。

さっそく六本木勤務となったが、最初の二日間で商品名とその値段を暗記しなければならなかった。バーコードや商品キーがないため、レジで直接金額を打ち込まなければならなかったからだ。どちらかと言えば米派の私はパンについてほとんど無知だったため、名前を覚えるのでさえ困難を極めた。そもそもカタカナが苦手。角張った字面が似通っていて、視覚的に覚えることができない。

ライ麦のブレッド、全粒粉のブレッド、パン・オ・ショコラ、パン・ド・カンパーニュ。意味で覚えづらい、魅惑的なだけの言葉たち。バケットは250円、バタールは240円。火曜と金曜の朝、ベビーカーに天使を乗せてやってくる外国人が頼むのはバタールの方。

仕事自体は驚くほど単純だったし、同僚はみな若い女性でよくしてくれた。周囲は大使館が多かったためアッパーミドルと思しき外国人も多く見たし、芸能人が来店するのも日常茶飯事。まさしく「大都会東京、ここに在り」と言わんばかりだ。

今まで学生街でアルバイトしてきた私にとって、同僚に学生がいないという環境ははじめてだった。言葉や概念としてしか認識していなかった、社会に組み込まれない『フリーター』という存在の実体を初めて認識できる機会だった。中でも忘れられないのが、一番仕事のできる24歳の女性。いつもニコニコしている彼女だが、話を聞いているとこのパン屋を経営する会社の元社員だという。
「社員になって、責任とか仕事内容とか違うなって思って。だからやめてここでバイトしてるんです」

学校を卒業したら正社員になって働く。そのことが当たり前だと思っていた。だから、なんで辞めたんですか?と聞かずにはいられなかったし、それに対してあっけらかんと答える彼女に、私は返す言葉がみつからなかった。
だって、安定してるし。税金とか、有給とか。今まで自分が信じていた何かを私は一度も自分の頭で考えていなかったことに気づき、当然のように論を展開していた自分が恥ずかしくなった。

働くって何?社会の一員として役割を果たすこと?お金をもらってご飯を食べること?やりがいを見つけて自分を高めること?でも、その先に何があるの?
仕事は生活の一部?生きるための手段?週7日中5日?
安定は幸せ、不安定は不幸?
生きる、働いて、何のために?

誰も答えてはくれなかったし誰の答えも知りたくなかった。自分の頭で考え、答えを見つけたかった。そのとき私は彼女の考えが理解できるのかもしれないし、できないのかもしれない。
当時の私には彼女の決断の意味も、社会の正しい姿も、バケットとバタールの違いもわからないまま地下鉄に潜り込み、六本木を後にした。

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