![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/124888569/rectangle_large_type_2_e2d84da165076f840ec428b103d8f6e6.png?width=800)
役割、役に立つということについて
仕事では「素の自分」で戦おうとしていて、家庭では母親としての「役割」をガッツリ演じている。
それが私の生き方らしい、ということに気付いた。
今の私は、子ども優先の生活をしていて、そのことに満足している。
子どもに求められたらなるべく早く対応しようとしているし、どうにかして喜ばせたい、望みを叶えてあげたいと常日頃から考えている。
それは、親という「役割」として、子どもの気持ちを受け止め、子どもの自立を助け、時に導き、よき相談相手となることが必要だと思っているからで、その通りに動こう、という行動指針が、私の中に確かにある。
ここでのポイントは、求められるのが「私」だからではなく「母親」だから、というところ。一個人としてではなく、「役割」としての私が求められている、と感じる。
それに引き換え仕事はどうだ。
ゆるい働き方を自分に許してしまっていて、先延ばし、ギリギリ仕事の常習犯。責任感はどこ吹く風だし、誰かを喜ばせたい、というモチベーションで行動するということもない。
面倒臭いから、可能な限り人との距離を取りたい、と心の中では願っている。そのくせ、孤立は嫌だと、拗れた依存心を同居させている。
これは、職場では「役割(役職)」ではなく、「一個人」としての自分にフォーカスが当たっていて、だからこそ、真正面に「一個人」の側面で向き合おうとしてしまっているんじゃないか。良くも悪くも。
一個人の側面で生きるのは難しい、
役割として演じるのは楽。
という視点は新しい。
仕事こそ「役割」なのでは?と思われなくもないが、なかなかそうは思えない理由があるのだろう。
仕事は、就職活動という入り口から入って、人事異動、人事評価という制度をベースに成り立っているから、「一個人」としての私が対象なのだと思ってしまう。
だから、特に、私自身の判断や決断を求められる場面では、自分の力量が問われているような気がして、後ろ向きな気持ちになってしまう。
管理者側からしたら、一個人モードなんて全く求めていないのかもしれないけど。
その点、母親業は、始まった時から「役割」でしかないというところが特殊で、変わりようがない。だからこその気楽さがある。
--
「役割」をこなしているか?という観点で考えていたら、「役に立つ」という言葉が急に際立って見えてきた。
「役」でない行動を取っているうちは「役立たず」なのだ、と。
いかに、自分の役割を見つけ、立場に沿った行動ができるかどうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?