日本麻雀百年史 その8

麻雀ルール 統一と変革の時代


  大正末期から昭和初年、麻雀が日本に入ってきた当初は、
    三家払い
    小副計算(サイド計算)
というものがあった。今日から見ると、不合理で矛盾したルールにおもえるのだが、本場の中国がそうであるから致し方ないように思われていた。

  三家払いというのは、アガリに対して放銃者ひとりが払うのではなく他の二人も払うというもので、麻雀が伝来した当初はともかく数年後には、日本人はこの仕組みを嫌悪するようになった。

  小副計算(サイド計算)というのは、誰かがアガった際に、アガリ者意外にも手牌の符、たとえば風牌とか三元牌等の刻子を得点として申告できるものである。

  大袈裟な例を挙げるならば、東家が東風牌をアンカンでもしていたら三十二点、三元牌暗刻で八点、一九牌の刻子も同様であり、これらが一つ一つ加算される。

  時としてではなく往々にしてアガリ点よりも小副計算の方が多い場合があったようだ。そのような場合はアガること自体が不利である。なぜならアガリ者は小副計算に参加できないからである。テンパイはしていないが小副計算は大きいという場合もある。そのようなときどうするかといえば、わざと小さなところへ放銃するのが高等テクニックであったようだ。

  順子は数えないから、ピンフは無得点である。この符計算は今日と同様である。

  これらの得点をお互いがやり取りする。実際はお互い差し引き計算をして支払いに漕ぎつけるのだが、先に記したように三家払いであるからアガリの支払いを含めて差し引き計算をしなければならない。まことにややこしく面倒くさいものであった。

  しかも放銃していない放銃責任の無い者も支払いをしなければならないとあって、日本人には不合理極まりないものにみえた。

  日本麻雀連盟は、「昭和4年標準規程」で小副計算を廃止した。三家払いを改め一家払いとするまでには時間を要したようである。昭和6年頃より問題になっていたが、実際にルールを改定したのは「昭和8年標準規程」においてだった。その間、フリテン規定を作り、パオ制度を精査し確立させた。こうして日本麻雀の骨格が生まれた。

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