日本麻雀百年史
【第一章】 麻雀伝来と麻雀営業の成立
夏目漱石が麻雀を最初に紹介した
有名なエピソードから始める。明治の文豪、夏目漱石が中国を旅した際、麻雀らしきものを見たという見聞記。
――たくさん並んでいる部屋の一つでは四人で博奕を打っていた。博奕の道具は頗る雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角くらいに当たる札を五六十枚程四人で分けて、それを色々に並べ替えて勝負を決していた。其の札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合わせに接いだもので、其の象牙の方には色々の模様が彫刻してあった。此の模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝ちになる様にも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴る許りで、何処が博奕なんだか、実は一向解らなかった。
これは、明治42年 (1909)11月19日付東京朝日新聞に漱石が掲載した「満韓ところどころ」にある記述である。
この漱石の文章が日本に麻雀を紹介した最初のものといわれてきた。
お読みのとおり、漱石は「麻雀」を知ってはいなかった。したがって、文中では「麻雀」のマの字も無く、その仕組みも理解してはいなかった。それに文中札の数が「五六十枚程四人で分けて」とあり、手牌の数のことなら順当であるが、使用牌全部のことであるとすればおかしくなる。しかしながら、麻雀以外にこの文章に当てはまるものは見当たらないので、これは間違いなく麻雀であろう。
ただ厳密には麻雀の紹介とはいえず、見聞記のたぐいである。したがってこれをもって最初の紹介記事とするのは少しばかり無理がある。その無理を承知の上で書くのだが、この時期にこれほど詳しく麻雀らしきものを記述したものは他に無く、大方の意見に沿ってこれをもって最初の麻雀記事としてもさほどの混乱にはならないだろう。
しかしながら、これをもって中国から日本への麻雀伝来というわけにはいかない。
名川彦作が麻雀牌を最初に持ち帰った
二つ目のエピソードである。
中国四川省に英語と日本語の教師として赴任していた名川彦作が、帰国に際して麻雀牌を日本に持ち帰った。帰国後は、樺太の大泊中学校で同僚や生徒に麻雀の遊び方を教えた。
これが明治43年(1910)のことで、漱石の「満韓ところどころ」の翌年である。
名川の帰国は、文献によって明治40年、41年、42年と全くバラバラの記載が残っているが、手塚晴雄(日本麻雀連盟理事長)が生前、名川彦作の遺族に確かめたところ明治43年、1910年と判明。手塚の著作「南は北か」に記載されている。
さらに詳しい記録が残っている。
戦後、昭和31年、日本麻雀連盟理事長であった川崎備寛が『麻雀タイムス』に記したものである。それによると名川彦作は、明治7年生まれ。
明治34年七月、東京帝国大学英文科卒業。
鳥取県立第一中学教論を振り出しに大阪府立八尾中学に転じる。
明治38年9月、 中国四川省資州師範学堂の英語教師に招聘され渡清。
明治43年1月帰国。
この記録も川崎が東京・杉並区にあった名川家を訪れ、家族から直接聞いたものである。
名川が牌を持ち帰った年は、明治43年であることは紛れもない事実であろう。
これをもって、日本への麻雀伝来の年とするならば、2010年で丸100年ということになる。
なお榛原茂樹の研究によれば、現在の136枚の清麻雀が中国において完成したのは1850年代というから、2010年で麻雀誕生160年となる。
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