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おお怖っ!女性は突然論理的になる?子供に執着するのは自立できなかったから?…女性の中の男性性、アニムス。


前回は男性の中の女性性、アニマを見ましたが、「女性の方はどうなんだ?」と…
「どこまで自立できているのか」「女性だって愚かなことしてるでしょ?」と考えられた方も多いのではないでしょうか?
気になりますね。
いつまでも水掛け論みたいになっているジェンダー問題も、この記事を読むことで構造がはっきりしてくることでしょう。

画像お借りしました。
(C)2006 Twentieth Century Fox Film Corporation and Dune Entertainment LLC. All rights reserved.(C)2010 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.


アニムス

女性の場合は、そのいわゆる女らしい外的根本態に対して、無意識内には劣等な論理性や強さが集積されている。
女性の内界に存在するこの男性、アニムスは、例外を許さぬ頑固な意見として外に表われてくることが多い。
アニムスに取りつかれた女性は、「⋯⋯すべきである」と意見を述べる。これは一般原理としては正しいが、その個々の実際場面には適していないときが多いので、この頑固な意見に出会うと、男性は俄然、感情的になってきて、感情的な反対論を述べたてる。しかし、これはいつまでたっても交わらぬ平行線であって、ほとんどの場合時間が解決を与えてくれるのみである。
実際、アニマがエロスの原理を強調するものであるのに対して、アニムスはロゴスの原理を強調するものということができる。

最初の段階は、男性の力強さ、とくに肉体的な強さを示すもので、スポーツ選手などのイメージとして表される。

次の行為の段階は、(中略)強い意志に支えられた勇ましい行為の担い手としての男性像によって表される。
頼もしい男性の出現による未来の人生の設計などという、願望に満ちた考え(多分に空想的であるが、本人にとっては、一つの考えである)として生じてくる。
この素晴らしい考えによって、「女性も職業を持つべきである」とか、「自分の夫は一流大学出身でなければならない」とか、動かしがたい意見が形成される。
願望に満ちた考えが強くなると、それとの比較によって、外界のあらゆるものは無価値に見えたり、つまらなくなったりしてくる。何に対しても浅薄な批判を加えているうちに、それがついには自分に向けられるようになり、自分を極端につまらなく感じたり、女であることを卑下したり、あるいは、過ぎ去ったことのみ取り上げて、「大学へ行っておくべきだった」、「あの人と結婚しておくのだったのに」と繰り返すことになる。

アニムスに取りつかれた女性のこのような特徴は、グリム童話の『つぐみひげの王様』の王女の態度として、非常に生き生きと描かれている。たくさんの求婚者にあだ名をつけて笑い者にしておきながら、そのあとで王女は何度も、「ああ、つぐみひげの王様と結婚しておけばよかったのに」とくり返さねばならないのである。

このように破壊的な作用をのみ生じるとは限らない。女性の中にある願望に満ちた考えは、誰も気がつかぬ可能性を引き出したり、新しく提出された考えに対して偏見をもたずにいち早く同意したりすることによって、建設的な役割を果たす。
男性がその硬い思考の枠組みにとらえられて、新しい傾向を排斥しようとするとき、その意義を認めて 革新的な行動に加担する女性が現われ、改革の陰の推進者となることも多い。

アニマの特性が他人との協和であるのに対して、アニムスの特性は、その鋭い切断の能力にある。アニムスの剣の恐ろしさにも注意しなければならない。近代女性はアニムスの剣によって、男性と太刀打ちしているように見えながら、その実は自分の女の命(femininity)を切りきざむ作業に熱中することになる。
結局のところ借り物でしかないので、その強烈な意見の背後に、父上の教訓や新聞の文化欄の記事などを捜し出せることもまれではない。

女性が自分の自己実現の道を歩もうとするかぎり、このアニムスを生きてみて、統合してゆく困難な道を選択してゆかねばならない。そして、この道はつねに、女としての命を失う危険性と、男性からの強烈な反対によって著しい困難を伴う。相手の男性太母(グレートマザー)の懐にまだ眠っている場合は、 この傾向はまさに著しいものとなる。女性の独立の動きは、この男性の安楽な眠りを脅かすからである。

このような困難な道を避けて、女性的な仕事の中にアニムス的な要素を織り込むことによって満足を見出そうとしてる女性もある。育児や家事を能率的に、合理的に処理していくことのなかに満足を見い出してゆくのである。しかし、このような仕事の能率を上げることや、育児制限の普及などによって、家庭の主婦は多くのエネルギーの剰余を得、これの消費法に困ってしまうわけである。
このエネルギーが少し横道にそれ、低いアニムス と結合すると、この女性は性的冒険を求めて行動することとなる。一般の女性にとって、セックスのみを切り離して楽しみや興味の対象とすることは少ないが、この種の女性は、男性と同じく(実際それはアニムスの働きによるものだが)、セックスのみを追い求めて行動することとなる。
ドン・ファンが母親からの独立を求めてのあがきであると前に述べたが(1つ前の投稿)、これらの女性の性的冒険やよろめきも、自己実現の道を求めてのみじめな努力ともいうことができる。これらの男女は不思議な嗅覚によって相呼び合って、行動を共にするが、肉体の結合とこころの分離とを味わうのにすぎないことも多い。
一般の主婦は、このような素晴らしい冒険は実行してみずに、せいぜいテレビ映画の鑑賞の範囲にとどめておき、余ったエネルギーはもっぱら子供へと注がれることになる。現在の夫にアニムスの像を見出せぬ嘆き、「ああ、つぐみひげの王様と結婚するべきであった」というアニムスの嘆きは、子供への期待と変わっていく。願望にいろどられた考えはすべて、子供へと投影され、子供は母親のアニムスを生きねばならぬこととなる。
子供はやさしい口づけで、100年にわたる女性の眠りをさます美しい王子であることが期待され、あるいは、名演奏によって万雷の拍手を浴びる少年音楽家となることが要請される。アニムスの発展を一途に願う母親に、科学的な育児法や、合理的な教育法などという適切な武器を供給する親切な男性も多いので、ここに悪名の高い「教育ママ」が誕生する。しかし、自分の妻の教育ママぶりに困惑したり、冷笑したりしている男性が、多くの場合いまだ「母ちゃん」のひざに乗っている男性として、女性のアニムスの正しい発展の道をとめ、教育ママの生産に大きい力ぞえをしていることに気づいていないことも多い。
われわれが内的な世界にまで視野を広げて物事を見るときは、夫婦のうちどちらか一方だけが悪く、一方がよいなどという場合は、非常に少ないように思われる。

人間の幸福ということを単純に考えるならば、女性としてはアニムスの問題などに気づかぬほうが、はるかに幸福といえるだろう。
美しい娘プシケはクピドに愛され結婚するが、夫のクピドは夜にだけやって来て朝にはいなくなってしまう。そして、プシケに自分の姿をけっして見てはならないといいわたす。始めのうちは幸福にすごしていたプシケも、とうとう好奇心や疑いの気持ちに勝つことができずに、ある晩に灯りを取り出してクピドの姿を見てしまう。それと気づいたクピドは怒ってとび出してゆき、ここからプシケの苦難の道が始まる。幾多の困難にあいながら、とうとう プシケは再びクピドと結ばれるが、(中略)ここにプシケが夫の姿を見ることを禁じられていた点に注目したい。 つまり、美しい娘プシケは、このアニメスを見ようとしないかぎり、アニムスの問題を意識せずにいるかぎり、幸福な結婚生活を続けてゆくことができるのである。
彼女の好奇心と疑いの心が、それを許さなかった。彼女の内に、何かそのような単純な幸福にあきたら のものが生じたのである。この点は、あらゆる女性にとって選択をせまられる転機である。
クピドが プシケに自分の姿を見ることを禁じたように、一般の男性は、女性がアニムスに目覚めることを好まない。実際、女性のなかにはアニムスに全く気づかなかったり、完全に抑圧したりしているひとがあり、これらの女性は個性がないという点において、男性のアニマの投影を受けるのに最適であり、この意味において多くの男性から愛されたり、ちやほやされたりする。
このような女性は、ほかの女性から見れば、個性がなくて頼りない、どこがいいのかわからぬ女性に見え、それが男性の間に人気が高いのが不可解に思えるものである。

しかしながら アニムスにいったん気づいた女性は、いまさらそれをやめることはできない。プシケの長い苦難の道と幸福な結末が示しているように、一度 歩み始めた道は、いかに苦しくても歩ききって、アニムスの発展の道をたどり、それを意識のなかに統合してゆかねばならぬ。
そのような苦しい努力を経て、アニムスは高い意味を持つこととなり、自分の女らしさを失うことなく、その女らしさを先導するアニムスによって、女性の自我はより高い統合性をもった自己と結ばれてゆくのである。現在の日本では、一方ではアニムスの問題に直面せざるを得ない状況にある女性もあれば、他方では、アニムスとまったく無関係な幸福な生活をおくっている女性もある。

アニムスの発展の道をたどる意義をさきに述べたが、 それがあまりに苦難に満ちたものであることを思うと、アニムスに対して目を閉じている女性を無暗に起こそうとする気はしない。ただ、自ら目を開いたひとに対しては、必要なときには助力をつくすべきだと思われる。


古来からアニマを描いた文学は多くあるが 、アニムスを描いたものは少ない。
ユングは女性のアニムスは複数の人格によって成り立っているのではないか、したがって、それを一つの人格として描き出すことができないのであろうといっている。

今まで述べてきたように、アニマとアニムスは、人間関係のなかに入り込んできて、その関係を一層複雑なものにする。一組の男女の関係は、アニマ・アニムスを入れて、四人の関係であるといいたいぐらいである。それに、男性がアニマと同一化すると、 女々しい男として馬鹿にされようし、女性がアニムスにつかれると、女らしさを失ったものとして非難される。

しかし、一度この問題に気づいたものとしては、われわれは、ある程度の同一化の危険をおかしてさえも、自分の内部にあるアニマ・アニムスを統合することに努めねばならない。この苦しいまわり道を通じて、一人の女性あるいは男性として、そのなかに強さ、弱さを含みながら、より豊かな人間として自分の個性を生きてゆく道を見出すべきである。この点において、もはやアニマもアニムスも、人間の男らしさ、女らしさをおびやかすものではなく、高い意味をもった機能としての働きをするものとなったということができる。このように生きていく過程を、ユングは個性化の過程と呼んでいる(以下略)。


「ユング心理学入門」河合隼雄、アニマ・アニムス章の要約は以上です。
全体を通して、めちゃめちゃ面白かったですね!
今回はアニムスということで、自分の過去の失敗を思い出し、恥ずかしくなったり、冷や冷やしながら読みました。
自分は今どこに居るのだろう…きっと毎日少しずつ移り変わっているのだと思いますが、せっかくの人生、より豊かに生きていきたいです。

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