猫目探偵鯖虎キ次郎の冒険「鋼の嘴」10

□大山の怪人

 数日後、異様な暑さのなか、針筵が息を切らして探偵事務所に駆け込んできた。
 ワイシャツの背中は汗でぴったりと背中にはりつき、脇の下からは汗のしずくがしたたろうとしている。
 ぜいぜい言いながら無言で冷蔵庫をあけ、オレンジジュースのパックをあけるとドボドボとグラスに注いだ。一気に飲み干すと、ふぅぅと大きな息をつく。ハンカチを胸元につっこんでゴシゴシこすりながら早口で報告した。

「先生、大山町のほら、税務署の裏あたり、高山さんが調べていたあたりなんですがね、かなりにおいますよ。いないんですよ、猫が……」
「大山か」
「あの猫たち、あそこから逃げて来たにちがいないですぜ。行きますか、先生」
「よし」

 池袋駅、東武東上線のホームは暑かった。
 ここ二三日で急に気温を増した空気が、じっとしたままホームに充満している。
 鯖虎と針筵は、ホームに滑りこんできた各駅停車に逃げこむようにして乗り込んだ。

 大山の駅前はコロッケ屋の油のにおいが漂っていた。
 ずいぶんと待たせる踏切の遮断機をそそくさとくぐって商店街へと入る。
 東洋一と言われる伝説の大商店街だ。百メートル歩くと餃子屋と焼き肉屋とそば屋が必ずある。餃子、焼き肉、そば、餃子、焼き肉、そば、そして3回転ごとに団子屋がはいる。
 やがて商店街の喧噪が静まってきた。
 文化会館のあたりから、すうっと空気が薄くなってくる。
 風景の色も薄くなり、どんな街にもうっすらと漂う「猫の気配」がすっかり消滅していた。池袋西口に集まってきている「ため息をつく猫たち」は多分ここから引っ越して来たのだ。中学校の校庭の辺りの植え込みや、近くの小さな公園は猫たちの格好の居場所だったはずだ。そこにも猫の影はまったく無かった。

「ちっ、ひでぇもんだ、老いぼれ猫一匹いやしない」
「これが糧無き土地というものだ」
「ほんとですねぇ、どうしたってんだ……」

 やがて二人は板橋税務署の前に到着した。
 板橋税務署の裏側一帯は工場地帯だ。スレート板で覆われ、油にまみれた工場が集積している。

 暗かった。
 冷たい風で土埃が舞い、その一帯だけが日差しを拒否しているようだった。
 その中にひときわ目立つ建物があった。
 円錐形のタワー、5階建ビルほどの奇妙な形の工場だ。あたりには目を刺す臭気が濃厚に漂っている。
 工場の入口には「榊原歯車製作所」の煤けた看板がかかっている。
 ふと見ると、工場の敷地の中から薄茶色の埃っぽい子猫がよろよろと歩いてきて、鯖虎の足下でばったりと倒れた。鯖虎はその子猫をすばやく拾い上げ、慎重に内ポケットにいれた。
 針筵はうなった。

「うーむ、先生、こりゃひでぇことが起こりそうだ」

 あたりを覆う刺激臭に涙目になった鯖虎は、ハンカチで口と鼻を押さえている。

「……針筵君、今日はここまでだ」
「へい、長居は無用ですね、胸が苦しくなってきた」

 鯖虎は顔色を失っていた。冷たい汗が額を覆い、それはやがてぽたぽたと垂れてきた。

 榊原歯車製作所のワーの中の、薄暗い一室で監視モニターにかじりつく人影があった。
 この工場の主、天才歯車職人榊原文太だ。
 モニター画面には、立ち去っていく鯖虎と針筵の姿が映っている。

「ふんっ!どうせ借金取りか役所の回し者だ」 

 文太は苦々しげに鼻を鳴らし、監視モニターのスイッチを乱暴に切って立ち上がった。
 ビニールの健康サンダルをぺたぺたさせながらドアへ向かう。ぶ厚い鉄のドアが自動的に開いて彼はその奥の暗闇の中へ消えた。

 まっくらな地下室。
 文太の油にまみれた手が壁の電源レバーを押し上げる。
 地下室の天井に水銀灯が灯った。だだっぴろい床には、おびただしい数のガラス瓶がずらりと並んでいる。その中では巨大な鶏の頭が成長を続けていた。もうほとんどの瓶で白い羽毛が生えそろい、ゆらーりと水中で揺れている。それは人間の頭部ほどの大きさの白色レグホンの頭部だった。
 文太は、満足そうにそれらを眺めながら、ぺたぺた、ぺた、とサンダルをならして、部屋の隅の大きな木箱に向かった。

 高さ2メートルほどの油の染みこんだ木箱には幾重にも鎖が巻かれている。
 文太の手が、それををほどいていく。
 じゃらりじゃらり、じゃらり、鎖が床に重たいとぐろを巻いていった。
 箱の中から、何か動物の荒い息遣いと、小刻みに動くサーボモーターの音が聞こえてきた。


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