2023年5月号時評
ヌーなんとか
これを書いている今日、日本はWBCで優勝したという。伝聞で書くのは試合の開催地も、野球が何人で行う競技かも知らぬほどだからだ。ヌーなんとかの顔もわからない。しばらく優勝に沸いて騒がしいだろうが、この記事が読まれる五月、ペッパーミルも遠い記憶かもしれない。ブームとはそんなものだ。
下丸子に越して半年が過ぎた。蒲田に出ることも増え、印象も変わってきた。西口広場に立つと妙に落ち着く。先日も歌の友人を案内した。その人とは引っ越し直後、やはり蒲田で飲んだことがある。わたしが今回、名所案内のようにあれこれ解説したせいだろう、半年でずいぶん馴染みましたねと驚かれた。
蒲田もはじめは苦手だったが、気づいたらじわじわと浸食されていた。短歌も同じだ。コロナが肺を冒すように染まった。飲みながら少し、短歌ブームと呼ばれる現象について話した。呼ばれる現象、なんて言うのはブームの実感がないからだ。歌会始の国で短歌ブームというのも妙である。更にSNS由来と聞けば、遠い国のインフレのように響く。
ブームとは加速度的な熱狂の大渦巻であり、ペッパーミルが売れるとか、高校球児がその仕草を真似て怒られるとか、渦の外縁で起こる喜劇を通して感じられるものである。外側の流れは高速で、さまざまな寸劇が目まぐるしく展開される。それはたしかにスペクタクルだが、眺めて楽しんでいる限り渦を形成する力の本質はわからない。ニュースで見かけた先の二つの事例からもわかるように、桟敷席から見える喜劇は渦の中心を予感さえさせない。渦の力は喜劇を演じる人々だけを貫き、感受され、だからこそ彼らは嬉々として流される。短歌ブームを取り上げたNHKのクローズアップ現代は、大相撲を中継する国営放送らしく桟敷席を見事にこしらえたわけだが、ここからの批評はまさしく傍観者のそれである。見えるのは流される人々であり、渦ではない。渦に呑まれた人々は「熱い!ヤバい!間違いない!」と叫ぶだけだ。
安全な観測地点などはない。渦が可視化される領域までゆけば、否応なく巻き込まれる。だからブームを実感している人はすでに呑まれているし、わからない人は渦の遠くにいる。以上の理由からわたしは言うべき言葉を持たないし、すでに出はじめているブームの批評や解説からは距離を取りたい。SNSと短歌の今回の交接が見えるとすれば、渦の速度がさらに増して、短歌に関わっていれば嫌でも目につくほど凶暴な様相を呈したときであろう。従来の歌からすれば歪で、しかしその歪みにはブームの力の痕跡がありありと残る、そんな歌が大量につくられるときである。
近い未来、わたしは蒲田のドンキで大量の巨大なペッパーミルが投げ売られているのを目撃するだろう。それはブームの廃墟として厳然と並ぶ。経済と姦通したスポーツの姿は、このとき廃墟のアレゴリーを通して見えてくる。SNSを越えて他のメディアにも、やがて短歌の廃墟は流れ着く。その歪な形からわたしは、押印する力とそれを受ける短歌という詩形に思いめぐらせたい。ブームの実況中継は楽しいが、どうでもよい楽しさだ。考えるべきことはほかに山ほどある。
(滝本賢太郎)
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