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時評2021年3月号

 「定型の土俵」というワード

『定型の土俵』は章一郎先生の第十歌集であり、平成六年八月に出版された。詩歌文学館賞、短歌新聞社賞を受賞。入会間もない若造だったわたしは「なんて率直(すぎる)歌集名なんだ・・・」と思ったおぼえがある。
 なぜ今それを思い出したかというと、短歌往来十一月号の大井さんの評論「不在の「短歌」」をを読んだからである。歌の問題について、3つの論点を上げる。
  1.作者  =歌人とは何/誰か。
  2.作品  =歌とはなにか。
  3.作品解釈 =歌を読むとは何か。
 今回は2の「歌とはなにか」を論じている。「五・七・五・七・七」のリズムを持つ定型詩を前提としながら、「偶然短歌」「外国語短歌」「自由律(破調)短歌」の例を問いの補助として挙げている。
 「偶然短歌」とはインターネット上で偶然に「5・7・5・7・7」の形式になる文をせきしろ氏のプログラムで切り出したもの。前者が「偶然短歌」。「トホホ感」を読み取れなくもない。後者は結句に異化があり、ヒトの詩作の痕跡をみる。(『温泉』山下翔)
  ガス栓とトイレが二つある家で、片方のガス栓が壊れた
       三階はプロミス四階はアイフル五階はレイク六階は風
 「外国語短歌」は中島裕介氏の英詩の日本語ルビとしての短歌、外国語訳、三言語による歌を引き、判断の基準を定型に求めるなら、音節や5行書きなどの工夫し〈「短歌」の概念を援用する〉意味でTankaであるという。
 「自由律(破調)短歌」については「形式に表現されるべき詩の内実に応じて自由に選択されうる」とし、融通のきく形としている。
 最後に「短歌であるか」を判断する際に、読み手側の意識があることに自覚をもつべきという。それは笹公人氏のいう「あらゆるものを五・七・五・七・七に『切り取って』ながめることができる」詩性を付与する『和歌の概念』があるためだ。「寄物陳思歌(物に寄せて思いをのぶる歌)」の伝統だろう。
 これらのことから、大井氏は「短歌とはなにか」を問うときに、実作者として作品を創ることと同時に、読者として「私はこの作品を「短歌」だと思うのか、と問い続けることが」か回答とする。それが「多様、かつ不在の短歌を存在せしめる唯一の方法」と締めくくる。
 「短歌」はその定型と、作り手読み手の絶え間ない追窮をもって成り立つ・・・結局は定型とヒトなんだなぁと思ったところで「定型の土俵」をイメージした。
  定型の土俵おなじくはげみなむ古歌の心と技といま生く
 あとがきには「土俵が同じであるから、心も技も現代に生きていてはたらきかけてくるのだが、それをわがものとして身につけるのは容易ではないと知っている。」といい、古来からの優秀な歌人たちと同じ土俵で競うという気概をいう。古歌だろうが口語短歌だろうがヒトが介在し、定型のしばり中で格闘してことについては変わらない。「定型の土俵」は「歌とは」という問いを的確に表しているパワーワードと思う。

(佐藤華保理)