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「まひる野」2022年9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」(書評特集)③


今井聡『茶色い瞳』書評

白湯の味    滝本賢太郎

 
あさめしにゆで卵剝きひとくちを食めばぽかりと黄身のあらはる
頂きし土佐文旦の皮を剝く手のひらに受くる飛沫かをれる


 今井さんの歌に触れまず感じるのは、観察の細かさである。その観察が端正な文語で詠われるとき、言葉の選択に一々深く頷いてしまう。作者自身は「あとがき」で「ありふれた日常をありふれた言葉で捉えたもの」と言うが、日常や言葉はたとえ「ありきたり」であっても、一首目の「ひとくちを」や「ぽかり」、二首目の「受くる」は全然ありきたりではない。歌を統合させる語の選択と接続の冴えは、まぎれもなく光っている。冴えというよりこだわりと言うべきかもしれない。かなり強固に感じるし、歌集通して変わらないゆったりとしたリズムも、ゆっくり読むことを読者に促す。実際そう読まない限り、今井さんの歌は表層にしか触れられない。

見るのみで雲の手触り知らぬのにふかふかと言ひふはふはと言ふ
葉といふ葉すつかり落ちて欅木が立ちてをりその木肌は剝げて
ウクレレをゆつくり弾けば板橋区蓮根(はすね)歳末の日がくれてゆく


 一首目、歌集を読み返すうちに象徴的な歌にも思えて来た。雲のふわふわふかふかという擬音にゆるい懐疑を滲ませる結句は、本当の手触りを求める心を示す。彼の歌には、自身の五感で身の周りの感触を確かめる傾向がある。歌作は知覚となる。知覚とは自身を知る媒質にもなりうる。二首目では枝に留まらず木肌へ向う視線が、欅への心寄せを示す。だがこの観察の細かさは、心寄せをそれ以上のものにも感じさせる。それは欅に自身を重ねるようにも映るが、欅を眺める自身を媒介とした内省と捉えたほうがよさそうだ。この欅に淋しさはあっても自己投影につきもののヒロイズムは、ない。
 今井さんの歌が内省的というのは多くの人の認めるところだろう。だが正確には、彼において作歌という行為そのものが内省であり、自身を掴む試みなのである。知覚し、考え、掴む過程が肝要となり、それを歌に刻印させる。結論は蝉の抜け殻のようなものだ。だから詠む、詠み続ける。内省特有の思索的な陰鬱をあまり感じないのも、そのためだろう。むしろ三首目のように、ほのかな向日性が歌を支えている。内省と向日性の共存。今井さんの歌の特質はここにある。

歳月にはつか灯火君がゐて師がいましわれに歌の友ある

 今井さんの歌は静かだが寡黙ではない。内省と自閉の違いはそこにある。歌を通じた交流の歓びは、歌の求めるリズムでゆっくり読むと、詳しく、やはりゆったりと開陳される。

活力(オージャス)といふ語よろしくあたたかき白湯のむわれはオージャスと言ふ

 ここには現代短歌が先鋭化させたがる奇抜な喩やヴィヴィッドな景はない。だが短歌が詩に憧れて捨ててきたものの多くが残っている。この味わいをどう表すべきかあぐねる最中、この歌と出会った。そう、白湯の味わい、オージャスを秘める白湯の味である。

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