「まひる野」2022年9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」(書評特集)①
山崎聡子『青い舌』書評
無力なままで 北山あさひ
作年七月刊行の第二歌集。独特のノスタルジックなムードや死の気配をまといながら、今作では家族や育児を通して自らを見つめる。
あやめ祭 てんてんと立つ灯籠をたどって知らない沼地に来たの
歌集前半の一首。幼かった日々から遠く離れて、しかしあの頃と地続きのまま、自分が親になるという不思議。いつ沈んでしまうかわからない沼地を手探りで進むのにも似た危うさが前半には色濃いのだが、同時に強く印象に残るのは、「自分ではどうすることもできない流れ」に身を委ねるしかない「無力感」のようなものだ。
尻尾にガスの匂いをさせる夕闇のバス、わたしたち、のまれてしまう
夕立ちに子どものあたま濡れさせて役に立たない手のひらだった
ミルク瓶をかたむけている夕焼けの色を上手に塗れなかった手で
猫を探して歩いていったその路地でふたり迷子の顔をしたっけ
「~してしまう」という表現は他にも「産まれてしまう」「さらってしまう」「隠してしまう」など多用されているが、その無力感、寄る辺なさ、孤独感は「子育て」の歌=初めて「親」として生きる人の歌、に特に顕著で、二首目にも「濡れさせてしまった」というニュアンスがある。夕立ちに咄嗟にかざす手のひら。それはあまりにも小さく非力で、心がすうっと遠くなる。三首目、乳幼児にとってはミルクが生命維持の全てだけれど、それを「夕焼けの色を上手に塗れなかった手」で担う。途方もないことだ。四首目、ここにいるのは、親と子というよりも、むかし子どもだった人と、いま子どもである人、なのだ。こんな感覚を手離さない山崎を私は誠実だと思うし、不器用で頼りなく、正直で懸命な姿には胸を打たれる。
君のべろが煙ったように白かったセブンティーンアイスクリーム前
青い舌みせあいわらう八月の夜コンビニの前 ダイアナ忌
自分の意思とは関係なく、簡単に白や青に染まってしまう舌。時々、それを見せあいながら笑う。人生とはきっとそういうものなのだろう。そして、私は本書に繰り返し登場する「母」のことを思う。
花柄のワンピース汗で濃くさせた母を追って追って歩いた水路
逆光のなかに立たせた母親を許す冷たい真夜のふとんで
幼い「わたし」に、冷たく厳しかった母。その母もまた「汗で濃くさせた」ワンピースを着て、慣れない「親」を生きていたのかもしれない。Ⅰ章の最後に見せた、母を「許す」一連は圧巻だ。
青葉闇 トンネルぬけてたどり着く場所をどこでも親しく思う
歌集の最終盤の一首。おそらく子を宿す前の歌。このときの「わたし」から、薄暗い沼地をあゆむ「わたし」までの遥かな距離よ。無力なままで、たやすく染まってしまう舌を見せあいながら、次はどこへたどり着くのだろう。
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