見出し画像

古代で関心あること

社会科教員を目指すために履修する中で、あるレポートをまとめたことを引用する。これらは、先日の投稿「社会科を知るために①」と「社会科を知るために②」で自分の心構えから努力したことを表現している一部である自信があるといえる。

 なお、2021年春には近世・近代辺りにも触れて取り組む予定となっている。生徒の頃に学んだ学習内容を更にテーマを絞って追及することの学びは、2022年度学習指導要領によって大きく変わる「歴史総合」において受講する生徒にもっと深く学ぶようにしておくことが教職員に求められる専門性である。このことを文部科学省が示されているわけであるので、私たち社会科教員になる人たちには努力しなければならないことがとても大変である。長文になるため、今回は古代を挙げるが、次回は中世分野からも伝えていく予定である。

はじめに
 私は現在高等学校「公民」、中学校「社会」の免許を持っているが、未だに「地理歴史」の免許は所有していないために今回の受講となった経緯があるが実際に歴史の授業に取り組んだこともあり、そこでテーマに沿って印象的だった内容を思い出したので取り扱うことしたいのは以下の通りである。
 古代分野からは、「神仏習合はいつから起こったか。」で中世分野からは、「貨幣経済の浸透について」を挙げる。その理由として、2022 年度から始まる「歴史総合」「日本史探究」という科目の観点に照らし合わせていろいろな視点からまとめてみたとき、自分が教員の立場であれば生徒の身近な生活で気付く話題に興味・関心を持たせることが大事なので、このように課すべきではないかと思ったのである。なお、中世分野については私自身も苦手であり、短めであることや古代分野に力を入れていることはご了承願いたい。

1、古代分野「神仏習合はいつから起こったか。」を挙げる
 ここで指す内容としては、生徒の立場でいうとシンプルな疑問がある。「なぜ仏と神がいるの。」または「仏と神が一緒になっていると聞いたことあるけどなぜ。」ということである。これは私自身もあまり深く考えたことないが、実際に地域調査や町を歩く中で、「神仏習合」という文字が書かれる寺社や墓地などを見かけることはある。これは生徒自身も普段の生活する中でこのような経験をするだろう。そのため社会に触れる意味では、考えさせることでより興味・関心を引き出せる教材であると思った。
 歴史の教科書などで学習する一般的としては、仏教が6世紀半ばに公式に伝来したのち、8世紀の奈良時代から神仏習合の状態が徐々に形成され、10世紀頃の平安後期になって本地垂迹説(神は仏が仮の姿をとってこの世に現れたものであると考える)として完成されたと多くが解釈されていることをまとめてみた。でも私は、言葉そのままの意味を見ると辞典で調べてしまう。そこで『広辞苑(第五版)』によれば「相異なる教理などを折衷・調和
すること」である。と明記されている。つまり要するには仏教以前の原始神道と、その後の仏教の受容の過程を考えるとき、果たして「習合が徐々に形成された」という見方が適切かどうかということと推理した。そこで生徒には、テーマをこのように考えさせたい。「神仏習合はいつから起きたか。」である。

2、「神仏習合」について考察する
 歴史の教科書では、仏教以前の日本においては、いわゆる「原始神道」の信仰が民俗的な意味で普及していたということが述べられている。(東京書籍、2008)「民俗的な意味で」と述べたが、これは古代の日本人にとって「神道という宗教」としてとらえられてはいなかったからである。鎌田(2000)によれば、「神道」という語は『日本書紀』に登場するよりも
前に中国の『易経』のなかにあり、ゆえにわが国に独自のものでも固有のものでもないという。と記述されている。これは、どういうことなのか。と私は疑問に感じた。また教科書に戻って読み取ると、「原始神道」という語句が使われている。そこで井上(1998)によれば極めてアニミズム的な要素を持ち、自然の万物には目には見えない神々が宿っていて、その神々はあちこちを遊幸し、時々「まれびと」すなわち「お客さん」としてふいに人々のところにやってくる。その神々を人々は「祭り」の形でもてなし、祭りが終わると神々はまたどこかへと帰っていく。そしてその神々は、必ずしも人々を護るといった存在ではなく、自らの意志をあらわす手段として「祟り」を起こしたりもする存在である。よって、神々は一般的な意味での「信仰」の対象というのとは違う部分があり、また「目に見えない」存在であったので、人々は神々を像や絵にすることはなかった。と述べている。
 『日本書紀』の記述によれば(これによると仏教公式伝来は552年と指す。)百済の聖明王の使者がやって来て、仏像や経論、仏具などを天皇に献上した。ここから有名な蘇我氏と物部・中臣氏との間での崇仏・排仏論争が持ち上がる。としている。ここで注目するのが、排仏派の主張の中にある「蕃神」という言葉である。しかもそれが、「国神」と対比されているのだ。山折哲雄『仏教の受容と変容』によると、『日本書紀』以外の史料にも同様の記述があり、「蕃神」は「外国神」や「客神」と表現されてもいるということからつまり、当時の人々は、仏を「仏」としてはとらえてはいず、今までとは違った新しい「神」が隣の国からやってきた「客神」という言
葉から分かる通り「まれびと」として〜〜と、とらえていたわけである。また、蘇我稲目が最初の寺として自宅を「清める」という方法をとったところにも、神道的な「穢れ」の観念が色濃く反映されているといえるじゃないかと私はこう読み取れたわけである。
 では当時の歴史的人物といったら、聖徳太子である。この太子は、593年、推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政となり、仏教興隆に政治的な側面から積極的に尽力することになる。という記述で学習することが一般的に多く知れ渡っている。聖徳太子には、様々なエピソードが残されている。また、彼の思想には儒教思想と仏教思想が混在するとも指摘されている。そもそも、彼が実在の人物であったかどうかすら疑わしい。例えば太子の以下のエピソードは、特徴的なことが色々ある。用明天皇崩御の後、蘇我氏と物部氏は激しい戦いを繰り広げる。この決戦の時、崇仏派の蘇我馬子の軍が攻め込まれて危機に瀕した。
 この時、まだ少年であった後の聖徳太子、厩戸皇子は、白膠木(ぬりでのき)を使って四天王の像を造り、それを頂髪(たきふさ)に置いて誓言(うけひ)を発して祈り、その結果、馬子は物部守屋を倒して勝利したというのだ。「白膠木」といい「誓言」といい、まさに神道的な方法であろう。もちろんそこには、「四天王の像」という「偶像」が登場し、仏教の影響があることも見逃してはならない。という諸説もある。これは私が予想するには、太子がシャーマン的な立場で「神語(かみごと)」を伝えるというきわめて神道的な方法をとっていたじゃないかとという指摘もある。聖徳太子の時代を経て、8世紀、公には749年の聖武天皇による東大寺の大仏建立の詔によって、「神よりも仏の優位」が公式に明確に定義されたことをわかりやすい表現で解釈していることが多くの歴史の教科書で一般にいわれている「神仏習合」の端緒にたどり着くわけである。以上、仏教伝来から「神仏習合」の入り口に至る歴史を様々な書籍がら概観したが、最初の問いに戻ると「神仏習合は徐々に形成された」という見方は、私は適切ではないという答えになる。理由として仏教はそもそも伝来の時点で、既に「神道的なもの」であったことがうかがわれる。仏教は決して仏教としてとらえられたわけではなく、仏教は「新しい神道」として受け入れられたというのがふさわしい。そして、仏教の普及、興隆のために選ばれた手段もまた神道的なものだからといい、「日本は最初から仏教など受容していなかった」などの弁に陥るつもりはないじゃないかと思う。一般的に見ると日本はたしかに仏教を受容したかもしれないが、それは既に伝来の時点で「神仏習合」であったのではないかと私は考えるわけである。生徒にもこのようにして考えさせるにも一つの学習になればいいと思っている。

【引用文献】
井上順孝編、伊藤聡、遠藤潤、森瑞枝著「神道 -- 日本生まれの宗教システム」、1998 年、新曜社
井上光貞、上山春平監、桜井好朗編「大系 仏教と日本人 1 神と仏 ―仏教需要と神仏習合の世界―」1985 年、春秋社
鎌田東二「神と仏の精神史 神神習合論序説」、2000 年、春秋社
新村出編「広辞苑(第五版)」、1998年、岩波書店
山崎圭一「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書」、2019 年、SB クリエイティブ株式会社


【参考文献】
飯沼賢司「知っておきたい歴史の新常識」、2017 年、勉誠出版
井上順孝「図解雑学 宗教」、2001 年、ナツメ社
社会認識教育学会編「地理歴史科教育」、学術図書出版社
山折哲雄「神と仏 日本人の宗教観」、1983年、講談社現代新書
山折哲雄・編「講座 仏教の需要と変容 6 日本編」、1991 年、佼成出版社