【逃げ上手の若君】保科弥三郎•四宮左衛門太郎データベース!(史実・基本編)

 ※本記事の内容は『逃げ上手の若君』(松井優征)単行本1〜8巻の内容を含みます。

 週刊少年ジャンプで大人気連載中『逃げ上手の若君』に登場する保科弥三郎と四宮左衛門太郎。逃若党を頼もしく助けてくれる格好良いコンビで好きになった人も多いかと思います。私もそうです! 保科四宮かっこいい! 

 本記事ではそんな保科四宮が史実ではどんな人たちだったのか、また2人の聖地巡礼オススメスポットなどを紹介し、保科弥三郎・四宮左衛門太郎を様々な角度で楽しむお手伝いができたら嬉しいです! 

 何回かに分けて書いていこうと思いますが、初回は基本編ということで下記の3点を参考文献と共にざっくり説明します。


①保科•四宮は実在の人物なの?

 答えはYESです。
 逃げ若作中にも登場する市河助房が書いた下記の古文書の中に「保科弥三郎・四宮左衛門太郎」の名前が登場します。
市河助房等着到状 | 市河文書 | 長野県立歴史館 (解説あり)
 ちなみに小笠原貞宗に提出されたものです! オールスター感!
 そして2人のフルネームが出てくる現在唯一の古文書です。


②保科•四宮は実際には何をした人なの?

 何をしたか、それは①で紹介した市河助房の古文書の内容にほぼ終始します。
市河助房等着到状 | 市河文書 | 長野県立歴史館 (再掲,解説あり)

 1335年に北条時行が中心となって起こした「中先代の乱」の幕開けとして、7月14日に保科弥三郎•四宮左衛門太郎が北信濃で蜂起し市河助房たちと戦った、です。以上です。
 やや詳しく述べると少なくとも7月14日〜22日まで千曲川沿いで転戦し市河軍等と戦い続けました。また『中先代の乱』(鈴木由美)によると、彼らの蜂起は北条時行本軍の鎌倉行きをカモフラージュする陽動作戦だった可能性があるそうです。格好良い!

 しかし史実での働きはこれだけだった保科弥三郎•四宮左衛門太郎。逃げ若は、そんな余白の多い彼らが1335年の蜂起に至るまでの葛藤を丁寧に想像して描いてくれたんだなと感慨深いです。


③保科•四宮は実際にはどんな人だったの?

 次に、どんな人だったか。残る記録が上記のみのため人柄は分かりませんが、彼らの一族については知ることができます。

 まず、保科氏・四宮氏ともに諏訪氏の親戚とされています。『神氏系図』という諏訪氏の系図に、保科・四宮の名字が出てきます(リンク先の一番上『前田古写本之写』が見やすいです。系図の5,6,8枚目に保科四宮の名字が見えます)。

 また、保科氏・四宮氏共に遅くとも平安時代には北信濃の川中島近辺に住んでいたようです。上記系図内で見られる保科四宮のご先祖様とほぼ同世代ぐらいの諏訪為仲という人が平安時代中期の1080年代に活躍している(『諏訪の神さまが気になるの』(北沢房子)より)ことから分かります。ちなみに、「保科」「四宮」の名字は当時の武士の慣習として、彼らの領地がある北信濃の地名から取られている可能性が高いです。
 また『信濃中世武家伝』(田中豊茂)によると諏訪氏とその親戚は「諏訪神党」と呼ばれることがあったそうです。保科四宮も逃げ若作中では「諏訪神党」と呼ばれていますね。


 さて、ざっくりと説明してしまいましたが、保科・四宮の輪郭は見えてきたでしょうか? 次回はいよいよ聖地巡礼編に入りたいと思います。ここまでお読みくださった方、ありがとうございます!
第2回:聖地巡礼編

※この記事を書いている人は歴史の専門家ではありません。なるべく根拠を提示しながら記事を書いていますが、間違いがございましたらコメントにてお知らせください。



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