見出し画像

アンサンブル金沢を創設した岩城宏之さん「おらが街のオケ」、世界をめざし大きな足跡

 人生の出会いは不思議だ。まさに偶然の積み重ねでもある。美術はともかく音楽には、それほどの関心もなく、ましてクラシックの音楽会など縁遠かった私は、新聞社の異動で音楽と大いに関わりを持つことになるとは…。オーケストラ・アンサンブル金沢(以下OEK)を創設した岩城宏之さんに初

50歳代頃の岩城宏之さん(2018年6月、オーケストラ・アンサンブル金沢提供)

めてお会いしたのは、朝日新聞金沢支局長に着任した1991年春に遡る。当時、朝日系列の北陸朝日放送が開局し、メディアミックスによる各種イベントに奔走することになった。開局して間のないテレビ局にとって、3年目を迎えていたOEKは、岩城さんの指導力によって、新鮮で魅力にあふれていた。2年足らずの任期後も、OEKの活動を見守っていた2006年6月、岩城さんは73歳で他界した。その情熱とパワーに圧倒され、オーケストラ演奏へ

在りし日、指揮棒を振る岩城宏之さん(2003年頃、OEK提供)

の魅力を目覚めさせていただいた岩城さんが亡くなって、まもなく20年の歳月が流れるが、「私の出会った先達の人生訓」の連載の最終回で、あらためて追悼しておきたい。



 

OEK初代音楽監督を偲び追悼演奏会

追悼演奏会のパンフレット(2006年7月)

 岩城さんの葬儀には参列出来なかったが、約1ヵ月後の追悼演奏会に出向いた。会場は金沢駅前に2001年秋完成した石川県立音楽堂だ。岩城さんが晩年、ホームグラウンドにしていたコンサートホールには、大きな遺影と在りし日の指揮棒を振る岩城さんの写真パネルが掲げられ、厳かに催された。
黙祷の後、トーマス・オケーリーさんのティンパニ演奏が、静まり返った会

追悼演奏会での冒頭、オケーリーによる献奏(2006年7月16日、石川県立音楽堂、OEK提供)

場に響き渡った。曲は、E.カーターの「ティンパニ独奏による『サエーター』」。かつて岩城さんが打楽器奏者であったことを想起させ、儚く聞き入った。続いてOEKによってJ.Sバッハの「G線上のアリア」が指揮者を立てず献奏された。

バッハの「G線上のアリア」が献奏された追悼演奏会(2006年7月16日、石川県立音楽堂、OEK提供)
指揮者のいない献奏(2006年7月16日、石川県立音楽堂、OEK提供)

 当時の谷本正憲・石川県知事や山出保・金沢市長の追悼の言葉の後、演奏会に移った。岩城さんが生前親しくし、当初首席客演指揮者を務めていたジャン=ピエール・ヴァレーズはじめ、楽団と関係の深い外山雄三、天沼裕子、池辺晋一郎の4氏の指揮で、ベートーヴェン交響曲第7番、「悲しみの森」(作曲・池辺晋一郎)や「夏の思い出」(作曲・中田喜直)など7曲が演奏された。

追悼演奏会のフィナーレ(2006年7月16日、石川県立音楽堂、OEK提供)

 プログラムの表紙の岩城さんは微笑んでいた。一から築き上げた自前のオーケストラ。まさに「おらが街のオケ」は、この年創設18年。押しも押されもしない実績を誇っていた。しかも念願だった1560席のフランチャイズ・ホールで、多くの人に囲まれての追悼に、冥界の岩城さんにとっても、さぞかし達成感があったのではなかろうか。
 OEKと言えば岩城さんと同義語のような響きがある。それもそのはず石川県と金沢市に経済界も応援をして第3セクターを立ち上げる際に、三顧の礼を尽くして迎えられたのだ。岩城さんはその10年前にも名古屋フィルの設立や札幌交響楽団の監督もしていて、経験と実績から最適任者とされたのである。かくしてOEKは1988年、岩城さんを初代音楽監督に就任し、日本最初のプロの室内オーケストラとして誕生した。
 演奏会のプログラムには思い出の写真アルバムが掲載されていた。最初は設立記念公演で終演後に立ち上がった団員の真ん中で両手を広げて喜んでいる

オーケストラ・アンサンブル金沢設立記念公演で終演後に両手を広げて喜んでいるマエストロの岩城宏之さん(1988年11月21日、金沢市文化ホール、OEK提供)

マエストロ。ジュニア・オーケストラ、エンジェルコーラスと共演した時に子どもたちに囲まれ微笑む岩城さんの姿も。
2

チャリティジョイント・コンサートで子どもたちに囲まれ微笑む岩城宏之さん(2003年8月31日、金沢市観光会館、OEK提供)

001年の石川県立音楽堂杮落とし公演のパノラマ写真もある。この時はバンベルク交響楽団合唱団とベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」などを演奏している。最後は、2006年4月に最後の指揮となった第200回定期公演の岩城さんは車椅子姿だ。この間、岩城さんは、実に18年も楽団を牽引してきたのだった。没後、長年の功績から永久名誉音楽監督の称号を贈られた。
 

第200回記念定期公演。車椅子で挨拶する岩城宏之さん(2006・4・27、石川県立音楽堂、OEK提供)
OEKを指揮した最後の公演に(2006・4・27、OEK提供)

練習場は古いプラネタリウム校舎を活用


 私がOEKを知ったのは、朝日新聞金沢支局着任する直前、鳥取市民会館での公演だった。朝日新聞社が後援した後、OEKの本拠地に乗り込んだ格好だ。その頃、OEK(指揮・榊原栄さん)による朝日親子サマーコンサートが継続開催されていて、事業部長だった山田正幸さん(長年ゼネラル・マネージャーとして活躍)と親しくなった。
山田さんは、能登半島の高校の音楽教師をしていた。県内の公立高校のブラスバンド部顧問だったこともあり、石川国体の式典音楽の専門員をしていて、OEKに引き抜かれた。以来22年間も勤め、岩城さんの信任が篤かった。
 山田さんから声をかけられて時折、海外からのメンバーを交えての懇親会にも同席したりした。献奏した打楽器奏者のオケーリーさんもその中にいた。オーストラリアのメルボルン出身で、現地では首席客演ティンパニ奏者も努めていた。

OEKを創設した中西陽一知事を囲み、女性副知事の太田芳枝さん(左)と、谷本正憲副知事(中西さんの後任知事、1992年春)

 故人となった1991年時の中西陽一知事は「ハードよりソフトを」の姿勢を貫き、古い県庁舎を建て替えすることもなく、音楽振興を図ろうとオーケストラの創設に乗り出したのだ。私が当時、石川と東京、沖縄の3都県にしかいない女性副知事を一堂に「女性副知事シンポジウム」を企画し、そのアトラクションにOEKの女性カルテットの演奏を申し入れた時も、全面的な協力を即決していただいた。
 

古く狭いプラネタリウム校舎を改造した校舎での練習風景(1991年)

県庁舎ですら老朽化していただけに、楽団の方も専用のホールがなく、練習場も古く狭いプラネタリウム校舎を改造して使っていた。岩城さんの厳しい練習風景も片隅で見学させていただいた。団員を指導する集中力はすさまじい。一見いかめしく感じた岩城さんだが、普段は冗談も飛ばし、とても気さくなのに驚いた。
 石川県厚生年金会館や金沢市観光ホールの定期公演にも顔をのぞかせた。日常のニュースに振り回されていただけに、コンサートの時間は気休めになった。クラシックとは疎遠だった私だが、岩城さんのお陰で、ベートーヴェンやモーツアルトの曲など音楽世界に浸るようにもなった。
 

OEK公演の実現に向け、東北の旅に同行したもあった山田正幸さん(左)と筆者(1992年11月、石川県庁前)

1992年の夏休みには、山田さんと秋田、青森、仙台に旅行し、各地で朝日系列の放送局を訪ね、音楽事業についてOEK公演の実現に協力したこともあった。こうした貢献が評価されたのか、1993年に私が金沢を離任する際、岩城さん特有のジョークで直筆による「関西総支配人を命ず」の辞令をいただいた。
 

岩城宏之さんサインの「関西総支配人」の辞令(1993年4月)

 そうしたご利益もあってか、追悼演奏会や節目の行事、大阪での定期演奏会、記念誌などの寄贈を、いまだに受けている。「金沢から発信する世界に一つのオーケストラを」との岩城さんの夢に、気持ちだけでも「関西総支配人」として、私も紡がれていたい願いがする。
 

「金沢の文化として永遠に発展」を期す

筑紫哲也さんと談笑する岩城宏之さん(2000年8月、東京のホテル、金沢倶楽部提供)

 岩城さんは1932年東京都生まれ。東京藝術大学音楽学部打楽器科に学び、在学中にNHK交響楽団副指揮者となり、デビューは24歳。1960年N響と世界一周演奏旅行をして、一躍海外でも注目される。1962年、チェコ国立放送交響楽団を指揮してヨーロッパのオーケストラにデビュー。以来、国内はもとより、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルをはじめとする海外の主要オーケストラで客演指揮し、国際的な演奏活動を続けていた。
 

ジュリアン・ユー編曲の『展覧会の絵』録音演奏の岩城宏之さん(2003年9月5日、OEK提供)

 国内でも、OEK音楽監督のほか、NHK交響楽団終身正指揮者、札幌交響楽団終身桂冠指揮者、京都市交響楽団首席客演指揮者、東京混声合唱団音楽監督などを兼任し、華々しい活躍をした。1990年にフランス芸術文化勲章はじめ数々の音楽賞に加え、『フィルハーモニーの風景』(岩波書店刊)で1991年に日本エッセイストクラブ賞も受賞している。日本芸術院会員でもあった。
とりわけ、亡くなる年の1月末、2005年度朝日賞の贈呈式と祝賀パーティーが帝国ホテルで行われた。内外の活発な指揮活動で日本の現代音楽作品を幅広く紹介した功績が評価された。
 岩城さんと金沢の接点は、母が金沢で生まれ育ち、富山出身の父も旧制四高だ。本人も戦争末期から敗戦後に疎開し、金沢一中に在学している。オーケストラを創るに当たって、当時は日本海側になかったことと、文化的な土壌のある金沢に目を付けたようだ。日ごろ「このオーケストラは、わが国で初めてのプロの室内管弦楽団ですから、最初から日本一なのです」と語っていた。
 

アイゼンシュタット公演の打ち合わせをすると山田正幸さん(左端)と岩城宏之さん(2004年4月24日、OEK提供)
マグデブルク公演時の楽屋(2004年5月7日、OEK提供)
ヨーロッパ公演(2004年4月26日、ウィーン・ムジックフェライン大ホール、OEK提供)

岩城さんは、その当時の心境を次のように記している。
 「オーケストラ・アンサンブル金沢」が永久に日本一を続けることは、途方もないほど難しいことだ。初代音楽監督のぼくが去り、あるいはこの世から消えた後も、金沢の文化として永遠に発展しなくてはならない。日本中を騒がせて出発したから、3年で派手に解散、というのも華やかでカッコよく楽なことではある。しかしこれは文化のために、絶対に許されないことだ。
 『クラシック・コンサートへようこそ』(1990年、能登印刷・出版部刊)
 

第191回定期公演の記者会見をする左から岩城宏之さんと夫人でもあった木村かをりさん、真ん中は間宮芳正さん(2005年11月23日、石川県立音楽堂会議室、OEK提供)
リハーサル中の真剣な表情の岩城宏之さん(2006・4・27、石川県立音楽堂、OEK提供)

ベートーヴェン第一から第九まで全曲演奏


 OEKは、2007年より岩城さんの後任音楽監督に指揮者の井上道義さん(現在は桂冠音楽監督)を迎えた。2月25日に石川県立音楽堂で催された「井上道義音楽監督就任記念公演」では、初めての「邦楽・声明との出逢い」を実現させた。井上さんは持ち前の積極性と挑戦精神で、OEKの活動を15年にわたって引っ張った。

音楽監督に就任した井上道義さん(2007年2月25日、石川県立音楽堂、OEK提供)
井上道義音楽監督就任記念公演で「邦楽・声明との出逢い」(2007年2月25日、石川県立音楽堂、OEK提供

 その後、OEKは2022年9月以降、広上淳一氏をアーティスティック・リーダー、松井慶太氏をコンダクターらによる新指揮者陣に移行した。金沢駅前に威容を誇るフランチャイズ・ホールの石川県立音楽堂を拠点に活動を続けている。次の世代にバトンを渡され新たに展開を期しているとはいえ、これまでの歩みは岩城さん抜きに語れない。
 年間110回もの地道な演奏活動を続け国内では金沢での公演のほか、東京、大阪、名古屋においても年2回の定期公演を実施し、高い評価を得てきた。海外も1989年のベルギー、フランス以来、毎年のようにオーストラリア、イギリス、ドイツなどヨーロッパ各地やアジア諸国の演奏ツアーに出向き成功をおさめている。
そのレパートリーは、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの古典を軸に、ロマン派のシューベルト、ブラームスなども演奏し、またロシア、フランスものから室内オーケストラ作品の数々等多彩、特に設立以来武満徹ら現代作品への挑戦や委嘱初演は特筆すべきものだ。
 輝かしい業績と肩書きを持つ岩城さんから1992年春、相談を持ちかけられた。繁華街である片町のラウンジで懇談の席上のことだ。その年、朝日新聞東京本社に11月にオープンを控えていた浜離宮ホールの客席や設備、音響効果などの資料を求められたように記憶している。
 OEKの東京公演の可能性を想定していたのだろう。後日、山田さんからの要請もあって、浜離宮ホール支配人の志村嘉一郎さん(故人)を紹介した。志村さんも興味を示し、金沢まで出向いてきて、実際に演奏を聴き、OEKの実力に納得したようだ。私が金沢離任後、着々と公演交渉が整った。
 その後、驚いたことに浜離宮ホールで1994年にベートーヴェン、翌年にモーツアルトのそれぞれ全交響曲連続公演が実現したのだ。もちろんオケ―リーさんも主要メンバーだ。ホールは552席の小規模ながら音の響きの美しさは抜群で、岩城さんのお眼鏡にかなったようだ。
 

限定頒布されたベートーヴェン全交響曲収録の5枚組みのアルバムなどCDの数々

 OEKから、浜離宮ホールで録音し限定頒布されたベートーヴェン全交響曲収録の5枚組みのアルバムが贈られてきた。私にとって宝物となり、あの有名な第3番の「英雄」や第5番の「運命」、第6番の「田園」、そして第9番合唱付きを何度となく聴いたものだ。
 ベートーヴェンと言えば、岩城さんは後世の語り草になる偉業を成し遂げている。2004年と翌年の大晦日に、池袋の東京芸術劇場で「もはや、運命。岩城宏之ベートーヴェン第一から第九まで振るマラソン」演奏を開催した。
三枝成彰さんの発案で挑戦した公演は9時間を超える長丁場を一人で、なんと完全暗譜という離れ業で指揮したのだ。さすがに2005年時は岩城さんの健康面に配慮し、医師の日野原重明さんを聴衆として立ち会っていただき、途中1時間の休憩時間を設けヘルスケアを行うという条件下で、プログラムを断行した。
 岩城さんにとって計4枚のCDに集約したグラモフォンレーベルの「21世紀へのメッセージ」も大きな実績だ。「現代音楽の聴衆は確実に増えている」との信念に基づいて「日本で一番、現代の作品を演奏しているオーケストラなんです。どんな音楽でも面白がって演奏するオーケストラにとの思いが実現しつつあるのです」との言い分だ。

存在大きい「生涯指揮者」の遺志継承

 「生涯指揮者」を貫いた岩城さんの存在は大きかった。
1998年3月には、たまたま出張先の東京で岩城さん指揮の公演にめぐり合い、サントリーホールで聴くことができた。メンデルスゾーンの交響曲だった。演奏がはねてパーティーに誘われ、岩城さんやソニー会長の大賀典雄さんらと懇談させていただいたことも脳裏によぎる。岩城さんの尽力もあって、大賀さんはOEKの名誉相談役になっていた。
 顔に汗をひたらせながらの熱演の指揮には感激する。大阪でのOEKの公演はほとんど欠かさず出かけている。観客も定着し、いつもほぼ満席だ。ただ岩城さんはめったに姿を見せなかった。私にとって岩城さんの指揮でのコンサートは、2004年9月の大阪のザ・シンフォニーホールの定期公演が最後となった。2005年時も予定されていたが、体調を崩されていて叶わなかった。
 井上監督に引き継がれたOEKは2011年の東日本大震災を受け、「復興支援コンサート」を4月18日、石川県立音楽堂で開き、休憩時に井上監督やメンバーらがポリバケツを手に客席を回って義捐金を募ったところ、107万円余が集まった。私はすぐ思い出した。金沢在任時の1993年に能登地震があ

バケツ募金の井上道義さん(2011年3月21日、石川県立音楽堂、OEK提供)
チャリティコンサートでの義援金(2011年3月21日、石川県立音楽堂、OEK提供)

り、その直後のコンサートで岩城さんがバケツを手に客席を回っている姿だ。岩城精神はここでも引き継がれていたのだ。
 岩城さんが目指した「おらが街のオケ」OEKの「外からの評価」と「外への広がり」は、確かな足取りで継承されている。その大きな成果が、「ラ・フォル・ジュルネ金沢(熱狂の日)音楽祭」だ。いわゆるクラシックの祭典だ。世界6番目の開催都市として金沢が選ばれた。
 

ラ・フォル・ジュルネ金沢のコンサート(2008年4月29日、石川県立音楽堂、OEK提供)

 そして岩城さんの精神は継承され、いつまでも音楽を愛する人々に宿ることだろう。2012年9月に「生誕80周年 岩城宏之メモリアル・コンサート」が東京オペラシティと石川県立音楽堂のコンサートホールで開催されている。

メモリアルコンサートのパンフレット(2012年9月6日、東京オペラシティコンサートホール)

 今後も節目での記念コンサートを期待したい。
岩城さんが種を蒔いた音楽という「新しい文化」は、加賀100万石の城下町にしっかりと根づいている。OEKを創り、「生涯指揮者」として燃え尽きた岩城さんの遺志は、なお語り継がれ、多くの音楽を志すものやファンの心に生き続けている。最後にもう一度、在りし日の岩城さんの演奏の姿を偲びつ。

在りし日の岩城宏之さん(2003年頃、OEK提供)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?