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人の死を見つめた旅、インドのベナレス巡礼者が求める人生の最後、河畔で焼かれ骨灰が川へ

 一枚の写真の前でくぎづけになった。「藤原新也の聖地 旅と言葉の全軌跡展」(2004年、朝日新聞社主催)を見た時のことだ。その写真には、人間の死体を犬の群れが食べている光景が撮られていた。目を背けたくなる作品は、まぎれもなくインドのベナレスで撮った現実の一コマであった。写真には「人間は犬に食われるほど自由だ」のタイトルが添えてられていた。

「藤原新也の聖地 旅と言葉の全軌跡展」(朝日新聞社主催)図録より

 藤原はインドを長く放浪した写真家で知られている。文章も達意で、小説家であり思想家でもある。展覧会の図録にはこんなコメントを綴られている。
  多分そこには自分たちが、そして時代が失いつつあるリアルな世界があ
  り、今ここに生きているという実感がつかめるかも知れないと、なんと
  なくそう感じていたからかも知れない。そしてその予感は当たってい
  た。ちょっと刺激が強すぎるくらい当たっていた。
 

年間100万人を超すヒンドゥー教徒の巡礼者

 本棚の一角に大切に保存している『藤原新也の聖地』に収められた一枚の写真を見ていると、ベナレスに身を置いた旅が鮮烈に蘇ってくる。すでに4半世紀も前のことになるが、2000年と翌年の2年続けて現地を訪れた。藤原のメッセージ通り、日本では失われつつある人間の死を赤裸々に目の前に見せていて、私に生きていることの意味を問いかけてくるものだった。
 

ベナレスへの旅に携帯した三島由紀夫の四部作『豊饒の海』の第3巻『暁の寺』(新潮社刊)と、遠藤周作の『深い河』(講談社刊)

 ベナレスへの旅に携帯したのが、最初は三島由紀夫の四部作『豊饒の海』の第3巻『暁の寺』(新潮社刊)であり、次の時は遠藤周作の『深い河』(講談社刊)であった。故人となった二人は同世代の著名な作家であるが、思想も文体も異なっていたが、作品はともにベナレスを舞台に輪廻転生をテーマにしていた。
 最初はインドの仏跡を巡る団体ツアーで、ブッダが入滅したクシナガラからのバス旅だった。ベナレスは首都ニューデリーと東部の大都市カルカッタのほぼ中間にあり、鉄道で結ばれ空港もあった。何しろインドの人口約10億人の80パーセントが信仰するヒンドゥー教最大の聖地があるからだ。
 ガイドによると、日本人はこの町を「ベナレス」として呼んでいるが、これは英語名「BENARES・ベナリース」のローマ字読みだから、現地では通じないのである。独立後の正式名称は「ヴァーラーナシー」で、外国人にとってこれは発音が難しく、「バラナシ」のほうが発音しやすく、理解してもらえるそうだ。
 ベナレスは、ヒマラヤの水を流れ込んだガンジス川(現地ではガンガーと言う)の西岸に半円状に広がっている。人々は古来、その悠々とした流れと時間を共にしてきた。そして聖なる水で沐浴をすれば、すべての罪は浄められ、ここで死に、遺灰をガンガーに流されれば、輪廻からの解脱を得ると信じてきた。そのため年間100万人を超すヒンドゥー教徒はこの地を巡礼する。その中にはここで死ぬのを目的としている人さえいる。

彼岸を思わせる、日の出と向こう岸に広がる平原

 2000年10月、アグラのホテルを出て早朝5時過ぎ、ガンジス川近くまでバスで移動した。外はまだ暗かったが、異様な人の群れに出くわした。まるで夜市のような雑踏なのだ。どこから来たのか、人で溢れ返っているではないか。みんなガンガーと呼ばれる聖なる河をめざしている巡礼者たちだった。
 私たちは河の近くで降りると、物乞いや物売りに取り囲まれた。暗く狭い路地に彼らの声が響いていた。「チョットマッテ、ミルダケ…」。少しでも買い気を見せると執拗なことは聞いていたので無視する。ガイドの指示で人をかき分けるようにして船着場へ向かった。予約しておいた小舟に分乗し河岸を離れた。
 

夜明け前、ボートに乗りガンガーと呼ばれる聖なる河・ガンジス川へ

 

東の空にオレンジ色に輝いた日の出

6時10分前、空全体が薄紅色に染まり、東の空にオレンジ色に輝いた朝日が現れた。太陽が意外に早い速度で上昇する。まるでガンガーだけ違う太陽が昇っているのではないかと錯覚するほどに大きく美しい。船頭さんは「朝日はまずガンジスを照らし、ガートで祈りを捧げるバラモンを照らし、沐浴する人々にも光を与え、最後に世界の人々を照らす」と自慢した。
 茶色に濁ったガンジス川は意外に流れが速い。川幅は400mくらいだろうか。向こう岸には平原が広がっていて、見事なコントラストだ。手前から、焦げ茶色のガンジス、対岸が茶色、その向こうの平原は薄緑、その先の森は緑、その先には明けゆく空が色を変化させ広がる。
 

明けゆく空、彼岸を思わせる向こう岸に広がる平原

 彼岸を思わせる平原の日の出を拝んだ後、首を反転させると、そこは人間世界の坩堝だ。観光パンフレットで見かけている風景が目の前に開かれていた。川岸にはガートと呼ばれる沐浴をしたり、洗濯したりする階段が見える。おびただしい人たちがガンガーに身を浸し沐浴しているのだ。手で水をすくい、体や額に掛けていた。ある者は何度も身体を水に没しているではないか。

河岸に集まった人たち(2000年10月)

 小舟はゆったり漕がれ、対岸の日常をまるで観光名所のように見せるのだ。いくつかのガートにある広場から煙が立ち昇っている。そこは火葬場であり、夜明けを待つかのように死体が運ばれてくる。男性の死体は白、女性はオレンジの布に包まれていた。見てはならない衝撃的な光景であり、それが現実だった。
 

にぎわうボート乗り場(2000年10月)
沐浴をするため集まった人たちでにぎわう河岸(2000年10月)

 舟から降りると、すぐバスに乗りブッダが初めて5人の弟子に説法をしたといわれるサールナートに向かった。仏教の聖地にも関心があったが、もう少しヒンドゥー教の聖地を見聞したい思いにかられた。

ガンジス川への路地にある雑貨屋(2000年10月)


 その夜、ベナレスのホテルで三島の『暁の寺』をひもといた。
  ここには悲しみはなかった。無情と見えるものはみな喜悦だった。輪廻
  転生は信じられてゐるだけでなく、田の水が稲をはぐくみ、果樹が実を
  結ぶのと等しい、つねに目前にくりかへされる自然の事象にすぎなかっ
  た。それは収穫や耕作に人手が要るやうに、多少の手助けを要したが、
  はいはば交代でこの自然の 手助けをするやうに生れついてゐるのだっ
  た。                    (『暁の寺』より)

『深い河』の舞台を歩き、再びガンガーへ

 「ベナレスへもう一度」の思いは、意外と早く実現した。2001年3月インドに出張の後、休暇を取って出向いたのだ。デリーから飛行機なら1時間15分ほどで着くが、何事も経験と、列車にした。前日の午後7時過ぎに出発し、翌朝4時過ぎまで約9時間かかった。通訳兼ガイドのチョ-ドリーさんに同行してもらったので心強かった。
 駅を降りると、所狭しと人が横たわっていた。朝の列車を待っている人だけではない。巡礼者やホームレスがたむろしているのだ。私はチョ-ドリーさんの案内でホテルに直行し、朝食をとり一服した。
 

 前回同様やはりすごい雑踏の中を、町に足を踏み入れた。家々が入り組んでいて、路地が迷路のようにつながっている。人の汗の臭い、どぶの臭い、牛の糞の臭いが鼻をつく。その臭いに慣れた頃、ようやくガンジス河の岸にたどりついた。今度はガートから日の出を待った。
ガートを下る階段には、物乞いが皿を持って並んでいたが、沐浴に来た人が結構、硬貨を入れていく。朝の沐浴時が唯一の生活の糧なのかもしれない。少し離れたところではガンガーに流す花を売っていたが、花はお祈りに必要なものらしく、飛ぶように売れていた。

ガンガーに流す花売り(2001年3月)

 私も花を買い、沐浴の真似事をしてガンガーに足を浸した。そして花を投げ入れ、再びこの地を訪れることができたことに感謝し祈った。確かにいろんな物が流れているが、不思議と不潔な感じがしなかった。

沐浴する巡礼者ら(2001年3月)
河岸は、ボートに乗る人や沐浴する人たちでいつも混雑(2001年3月)

 ベナレスは町全体が門前町のような風情だ。随所に寺院があり、境内のような路地を歩くと、よく修業僧のバラモンやヒンドゥー教の聖なる動物とされる牛を見かける。ガートへ向かう道には、きらびやかな布で包まれた遺体を数人の男たちが担ぎ、かけ声をかけながらやってくるのに出会う。

きらびやかな布で包まれた遺体(2001年3月)

 まさに遠藤の『深い河』の主人公、大津のことが思い浮かぶ。金のある人は担架で運ばれるが、一人ぼっちの貧しい者や行き倒れの者はおぶって運ばれるのだ。
  この背にどれだけの人間が、どれだけの哀しみが、おぶさってガンジス
  河に運ばれたろう。大津はよごれた布で汗を拭き、息を整えた。その人
  間たちがどんな 過去を持っているか、行きずりの縁しかない大津は知
  らない。知っているのは、彼等がいずれもこの国ではアウト・カーストで、見捨てられた層の人間たちだ、 というこだけだ。(『深い河』より)

火葬場に焼死体、死を直視し生への思い

 私は、小説の中ではなく、人間の命のはかなさを直視しておこうと、死体の運ばれるガートのほとりの火葬場について行った。ダシャシュメワードガートと呼ばれる場所では、昼となく夜となく24時間、薪をやぐら状に積み上げて死体が公衆の面前で焼かれているのだ。

薪をやぐら状に積み上げて死体焼き場のガード(2001年3月)

 チョ-ドリーさんは冷静に「火の中に足が見えるでしょう」という。私は火の中に目をやった。すると確かにオレンジの布の下から2本の足が見えた。身体はすでに焼け崩れていたが、足にはまだ火が回っていないようだった。肉の焦げる臭いがたちこめてきた。その隣では作業員が遺灰をシャベルで河に流していた。
チョードリさんが帰りの飛行機のチケットを手配する間、日本人宿として有名な「久美子ハウス」近くのガートで休んだ。ほとんど人気がなく、その一角に腰を降ろした。そこで『深い河』を取り出した。すでに3度も読んでいた。重くて深い内容だ。
 あらましは、もう一人の主人公、美津子の自分探しの旅でもある。大学時代に自由奔放に生きる美津子が、敬虔なクリスチャンの大津を弄んだうえ捨てる。お金には不自由しない退屈な男と結婚した彼女は、新婚旅行の足でリヨンにおもむき神学生になった彼と再会する。月日は流れ、大津がインドにいると知った美津子は、自分探しの旅と重なり合わせて彼と再会する、といったストーリーだ。しかし生死の混在するベナレスを舞台に生きることの意味を考えさせるのだ。
この小説は遠藤が70歳直前に、しかも闘病の中で書いたのだ。「何という苦しい作業だろう。小説を完成させることは、広大な、余りにも広大な石だらけの土地を掘り、耕し、耕作地にする努力。主よ、私はつかれました」。遠藤は『深い河』の創作日記の中で告白している。
私の目前を流れる河は、遺灰も動物の死骸も人間の吐き出すあらゆる不純物をのみこんでゆったり流れていた。そのガンガーを、美津子は「人間の河」と意識し、それまでの過ちの人生を悟る。一方、終始ぶざまで見える大津は、指の腐った手を出す物乞いもガンジー首相の灰も拒まずのみこむ「愛の河」と捉えていた。
 ガンガーを見ていると、いかに世俗にまみれた自分がちっぽけな存在であるかを自覚させずにはおかない。生と死は表裏一体だ。時として死を念頭に生きることの意味の大切さを痛感した。私は大津の生き方を深く心に刻み、ガンガーを後にしたが、道すがら、粗末なわらに包まれた遺体を運ぶ人たちとすれ違った。
 

粗末なわらに包まれた遺体を運ぶ人たち(2001年3月)

冒頭で取り上げた藤原新也のベストセラーに『メメント・モリ:死を想え』(1983年、情報センター出版局)を何度となく読み返している。本当の死が見えないと、本当の生もいきられない、との趣旨は、ガンガーを訪ねてから身に迫る実感となった。死を意識することが、今を大切にいきることなのだ。                                                                             

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