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今は遠い未来と思えても春はくるよ。必ず

 里には春がきているに違いない。

 そう言えば大黒様がいらっしゃる里山で河津桜を愛でたのはもう一年も前になる。その後、2月末ごろから感染者が増加し始め自粛生活に入った。夏前から秋にかけて感染者が少ない時期を見計らって近所の山や自家用車で行ける範囲の山に通い束の間の森を渡る風の心地よさを感じた。
 しかし、今回の緊急事態宣言前の2020年12月ごろからの感染者の増加に伴って、また山に出かけることがなくなり、外に出ることもめっきり少なくなった。毎日の通勤の車窓から眺める景色だけではどのくらい春が近づいてきているか、感じることは難しい。風の音、草木の変化、空の色、空気のにおい。季節の中に自分が確かに存在していることを自覚するから「春」の訪れを実感できるのだろう。

 運命を分ける大事な大事な試験からすでに数日過ぎた。遠い昔にその時期を過ごしたものからしたら、決して運命を分けるほどの大事(大ごと)ではなく、一種のパスポート取得のようなものなのだが・・。そうは思えない、というのが一般的な真実なのだ。本人からしたら、もう数年に渡りこの日を迎えるために困難を乗り越え、努力と苦労を重ねてきたと、訴えたいに違いない。だから、結果にたいへん敏感になり、絶望とやるせなさに押しつぶされ、向き合うことさえ避けてしまうような心理状態に陥ってしまってしまうのだろう。

 私からしたら、この日に重要な意味を与えすぎているような環境の中にいるという不幸も重なっているだけのことだから、まったく怯える必要も、恐れる必要もない、ただの通過地点として捉えようよ、と伝えたい。ただ、この界隈の価値観では私の価値観は到底受け入れられるものではないようだ。単なるとある一つのものにすぎないそれなのだが、外を知らないと絶対化されてしまう。このことの方がよっぽど怖い話だと、私なりに一生懸命にそうメッセージを伝えようとしているが周りの意味づけにかき消されてしまう。ある意味無力感。

 その先に続く長い道のりを正しく教えずただただこの日に向けて鞭を打つという在り方ではなく、息が長く、自分のアイデンティティを積み上げていく道のりにどう向き合うかを教えていくべきだ、と心底思う。だが、私の思いは、努力が至らなかったと自分を責め、嘆き悲しむ若き想いには、もどかしくも伝わらない。

 さあ、外に出てみよう。暗く閉ざされた狭い世界から。道は四方八方に広がっているんだよ。そして、どの道を行ってもこの地球の営みは続いていくんだよ。地球がなくならないかぎりは。この一本道の先の遠い遠い未来の先にしか春はないと思っているのかもしれないけど、春はどの道を行ってもやってくる。一歩一歩進んでいこうよ。

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