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『情熱大陸』和牛編の個人的な話③

3月に放送され、9月にDVD化する『情熱大陸』和牛編。DVDをご予約いただいた方、ありがとうございます。普段テレビは無料で放送するものなので、自分が制作したものにお金を払ってもらうということが、いかに特別なことかを実感する日々です。書き出すと長くなるのでこの辺にしますが「買ってよかった」と思ってもらえるように作業中です。予約がまだの方、盛りだくさんになっているので是非よろしくお願いします。

今回は『情熱大陸』の2人のプロデューサーにまつわる話。

現プロデューサーの中村は僕の同期で、新入社員のころから仲が良かったうちの1人です。入社後の仮配属で僕ら2人は報道配属になり、それぞれ取材についていったり、わからないながらも原稿を書かせてもらったりしていました。

2カ月弱の仮配属もラスト1週となったところで、それぞれ短い特集VTRを作らせてもらうことになりました。僕のVTRは「団地の排水溝に迷い込んだ猫を救え!」、中村は「河原のバーベキュー肉を狙うトンビを追え!」という、揃って動物ものでした。

僕は1週間毎日団地に通い、排水溝に迷い込んだ猫を救出しようとする住民の皆さんを取材しました。しかし取材ラストの日になっても猫を救出することはできず、なんとその結末のまま放送。読後感の微妙なVTRとなりました(もちろんデスクが「これでいこう」と言ったから放送したのですが…)。

一方中村は報道フロアで「カメラ回したら、トンビが全然肉取らへんねん!」と毎日騒いでいました。被害が出てなくて良かったやんと思いつつ、毎日成果なしでただただ日に焼けて帰ってくる中村を見て笑っていたのを覚えています(結局どんなVTRになったかは忘れました)。

そんな仮配属を経て僕は制作に、中村は報道に配属され(トンビのVTRの評判が良かったのか?)、一緒に仕事をすることは全くありませんでした。時は流れて2018年。僕が東京異動になったとき、中村は東京制作で『情熱大陸』のプロデューサーとして働いていて、初めて同じ部署で働くことになったのです。

この15年の間、僕と中村はほぼ年賀状のやり取りくらいしかしていませんでしたが、僕は既婚者の中村に、行ってもいないのに「またコンパ行こうな!」とかそんな子はいないのに「あの子どうなった?」とか、なにかしらの火種になりそうなことを年賀状に書いて送っていました。そのたびに中村から「いらんこと書くな!」という文句が書かれた年賀状が1月4日くらいに届き、僕はそれを見てヘラヘラする…そんな関係でした。ちなみに、中村は奥さんに説明するのが面倒で、年賀状を家族の誰より早く受け取って、先に僕からの年賀状を抜き取るようになったそうです。ごめんよ、中村。

まぁそんな感じでわりと距離感が近かったのですが、ずっと『情熱大陸』をやってみたいと思っていた僕は、2020年の秋に和牛の企画書を書いて中村にプレゼンします。もちろん企画が通るかどうかに同期のよしみなんてものは通用しないのでシビアな話し合いがありましたが、無事中村からGOサインが出て、企画が動き出しました。それが2020年の年の瀬。

ここで話は入社当時の2004年に戻ります。僕らが入社した時の人事部長は、河村さんという『情熱大陸』の初代プロデューサーでした。新入社員にとって人事部というのは不慣れな社会人生活で傷ついたときの心の拠り所であり、僕も人事部の先輩方によく助けられていました。その中で河村さんは、いわば会社のお父さん的存在でした。

僕は入社以来制作から出ることなく、様々な番組を担当しながら少しずつですが自分の成長を感じていました。しかし30代後半になり、自分が同じところをグルグル回っているような感覚に陥りました。やりがいも楽しさも感じられなくなっていたのです。

当時僕は今よりもっと意固地な性格で、誰かに悩みごとを相談することはほとんどありませんでした。しかしそろそろ1人ではどうにもできない…と思って「話聞いてください」と連絡したのが、河村さんでした。

河村さんは僕の話を聞いて、諭すわけでもなく威張るわけでもなく淡々と自分の経歴を話してくれました。その中で出てきたのが『情熱大陸』を立ち上げたときの話です。番組がスタートした時、河村さんは40代前半。決して若くはありませんでした。「ドキュメンタリーは好きやったけど、それだけがしたい!ってわけじゃなかった。色んな条件とかチャンスが重なって、あの番組は始まったんよ」そう河村さんは言いました。

その後いろんな話をしましたが「目の前の仕事をちゃんとやることで、次のことに繋がるから腐らず頑張れ」というメッセージを勝手に受け取った気になりました。

遠くの目標をなるべく考えないようにして目の前の仕事に集中すると、また自分の成長を少しずつ感じられるようになったのです。不思議なものです。

それから数年後、僕と同じように河村さんにお世話になった中村と共に、和牛の『情熱大陸』を制作しました。

放送後、河村さんからメールが届きました。読む前にちょっと緊張しました。

「とても面白かったです」

その一文から始まった感想には、僕が番組を通じて伝えたかったことが書かれていました。とても嬉しかったし、ホッとしました。僕と中村は決して優秀な後輩ではないかもしれませんが、少し恩返しできたように思います。

「河村さんに話聞いてもらったから、また頑張れました!」と返信したら

「それは覚えてない!」

と言われましたが笑。

気づけば河村さんが『情熱大陸』を立ち上げた時の年齢に近づいています。とりあえず次の打席もバットを短く持って、コンパクトに振りぬくつもりです。どこにボールが飛んでいったかまたここに書くと思うで、引き続きお付き合いいただければ幸いです。