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三人の魔術師:番外編 モノベさんの日常⑦「~喉の住人①〈喉の住人って?〉~」

いまは印刷会社にある校閲部で主に書籍校正や校閲をしている。

仕事自体はたのしいのだが、元来人との関係を維持するのが得意ではなく、はっきり物を伝えるのは苦手だ。

かつてはためこむだけためこんだあとに感情爆発が起こり、数々のトラブルを起こしてきた。

言いたいことを言えばいいといわれて本当に「本当のことを言ってしまう」とか、「空気が読めない」といわれることもあったが…今にして思うと、似たような空気が読めない人間に「おまえは空気が読めないな」と言われることが多かった気もする。似た者同士への同族嫌悪を相手に向かって吐き出していたともいえるかもしれない。

60をすぎて、以前ほど苦しまなくなったが、いまでも誰とも口をきかなくていいなら黙っていたいと会社では思っている。


離婚の前の時期には、やはりそれまで抑えつけてためこむだけためこんだ怒りや不満が噴き出した。

しかし、自分以上にためこんでいた妻の感情に圧倒されて、発狂寸前にまで行った。

喋りだすと妻がこれほどまでに激しく説得力に富んだ真実という名の罵詈雑言を矢数俳諧のごとく数年にわたり私に訴え続けたことに驚愕した。

数年にわたる妻の私への判決文の読み上げが終わったと感じた頃のある日、無言に変わった妻の姿をみて、私は悔恨や怒りや不満をはじめとするあらゆる激しい感情がわきだし、子どものように終日泣き続けた。

涙がおさまったとき、やっと私は妻が突き付け続けていた離婚届に判を捺すことに同意した。

妻は何も語らず、次の日、置き手紙もなく、出ていった。
実家に行くことだけを聞いていた気がするが覚えていなかった。
仕方なく、一方的な連絡を実家に向けて書面で送るか、彼女の通帳に向けて入金することだけが続くことになる。


その日から私は死んだ魂が自分を上から見下ろしていながら生きているような妙な感覚で〈哀しさと絶望と浮遊感を抱いたまま〉現在に至っている。

愉しいことはほとんどない。
苦しいことも妻との離婚までの数年に比べたら大したことはなかった。

ただフラッシュバックのような記憶の反芻によるパニック障害に似た症状が時々襲ってきた。

そのときは現在を生きてるわけではなく過去を生きていた。何を好き好んでと呆れるしかないが、どういうわけか私の意識は〈過去の不快で絶望的な記憶〉に自分を積極的に誘った。

日常の食べていることをはじめ、すべての行為は〈生きることだけ〉のためであって、ただ機械的に行っているだけであった。

まれに望んで何かを求めても、それはまさに記憶の反芻であり、今に生きているから求めたことではなかったのである。

このままでは駄目になってしまうという意識はあっても感情を伴う焦りさえなかった。行くあてもなく運転する気さえないドライバーが無理矢理自動車に乗るようなものだった。


ただ、たったひとつの琴線が体の中心を貫いていて…それがために投げやりな人生を送ることもせず、霊的な進化のための意識を捨てないでいられた。

絶望と共存しているこの期に及んでも、それでも自分というなにかを支えているものが確かにそこに存在していたのだった。


ある週末、いつもは土日を効率よく過ごすためにすぐ帰宅して掃除洗濯に買い物や自炊などをしていたが、その日はどうしても気力が起きず、買い物をしたものも冷蔵庫にも入れないまま布団に入った。
冬なので腐ることはないだろうと思った。

横になっていたが…なんとか起き上がり、布団と毛布を畳んだ厚みを座椅子がわりにして、枕に足を乗せて楽な姿勢をとった。

低い天井とクローゼットをぼんやりと見上げたとき、爽やかな空の色の球が見えた。

しばらくその色の心地よさに視線が外せなくなっていた。
球体のまわりには主にオーロラの緑や黄色やゴールドイエローなどの光が呼吸をするように大きく小さく点滅していた。

疲れきっていて、それに驚く力もわかず、あるがままに見続けたのだ。

どれくらいたったろうか?
誰かが壁際に立っているのを感じた。
背は小さく、髪の毛はぼさぼさ。
少し額が後退していて薄かった。

痩せた感じの丸顔で、頬がこけて皺の入り方から、よく働いている肉体労働者のようであった。表情は穏やかだが、無口で多少かたくななイメージがあった。たぶん今の自分の年齢より年若いはずの…やはり、老齢といえる男性で、50代後半くらいに見えた。

「ゆきおくん」

自分の名前だった。
金縛りとは違ったが、体は思うように動かない。
男性の問いかけに私はできるだけの力をふりしぼって答えた。

「はい。ゆきおですが…なんで私の名前をご存じなのですか…」

無表情が一変して、人のよさそうな好ましいしわしわの満面の笑みをたたえていた。なんだか、泣きそうになり、懐かしい気持ちが湧き出してきた。

「喉の住人じゃよ。おつかれさん、モノベさん」

今度は、苗字まで…。

「喉の住人…?」

でも、なぜかを聞かずとも、答えが胸の奥に入ってくるようで、
あたたかい光の毛布にくるまれたような気分にかわっていた。

【続く】
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