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「蜂」

「お兄さん、お兄さん、終点ですよ。ちょっと困りますよ、早く降りてください。」

車掌らしき男が俺を揺らす。

無理やり起こされ、改札から出されるとそこは、知らない場所だった。

後ろを振り返ると「蜂ヶ山」と駅名が書いてある。

頭痛がした。

数時間前まで会社の飲み会があり、そこから一人でバーで飲んだ。

そこで初めてあった女性と話して。

そこからの記憶が全くない。

俺はポケットから携帯を探す。

ない。

財布も携帯も全部鞄の中だった。

灰色が胸を包む。

きっと電車の中だ。

すぐに引き返し、駅員に忘れ物を聞こうとしたがもう閉まっていた。

幸い、明日は土曜日。

朝までどこかで時間を潰せば朝になればなんとかなる。

にしても自分の居場所がどこなのか、ここが一体何県なのかすらもわからない。

深くため息をつき、ベンチに腰掛けた。

胸に入っているタバコを吸い、空を見上げる。

すると後ろから、

「お兄さん、これ」

と女の声が聞こえた。

俺は「うわっ!」と飛び起き、振り返る。

そこには俺の鞄を持った、さっきのバーで話した女が立っていた。

女は口を開く。

「もう一軒いく?」

頭の整理が追いつかない。

「す、すまない。さっきバーで話して、たよね?あの、えっと、とりあえずそれ返してくれないか?」

おれは鞄を指差すと彼女は

「もう一軒、いく?」

ともう一度言う。

俺は混乱していた。

「い、行かない!とりあえずかえしてくれ!」

と口に出した瞬間女は

「私を捕まえることができたら、ね」

と言い、全速力で走り出した。

俺は咄嗟に「待てええええええ!!!」と叫び、後を追う。

走って、走って、走り続ける。

呼吸が荒くなる。

こんなに全速力で走るのは中学のリレー以来だ。

目の前を走る彼女は速く、奇妙だった。

女走りとかそういうことではなく、こちらを見ながらバックで移動している。

俺は自分が酔っ払っているのか、それとも彼女が異常なのかわからないまま、とにかく追いかけた。

前を向いて走っているかのような、見事なコーナリングをしている。

俺は頭がおかしくなりそうだった。

走りながら叫ぶ。

「お、おい!待て!何が、何が目的だ!」

彼女は言う。

「もう一軒、いく?」

怖すぎる。

もはやこれが夢なのか現実なのかわからなくなってきた。

「い、いく!!!いくから!止まってくれ!」

すると彼女は急停止し、おれは彼女にぶつかった。

持っていた鞄がエアバッグのようになり、吹き飛ばされた。

俺は頭をコンクリートに強打した。


目を覚ますとそこはバーだった。

辺りを見回すと先程の意識がなくなる前の情景があった。

飲みかけのウイスキー。

二つしか食べてないピスタチオ。

俺は安堵した。

「良かったーーーー」とつい口に出した。

バーのマスターが言う。

「先程、お隣にいらした女性のお客様が帰られまして。これを、と。」

俺はマスターから渡された紙きれを恐る恐る受け取った。

裏返すとそこには、

「私の走り、どうだった? もう一軒、いく?

BEAMS 二子玉川店 橋本かおり」

と書いてあった。

恐怖より先に口が動いた。

「いや、BEAMSの店員かい...」



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