君と死体

 透明な水槽の奥で、出目金が弛げに旋回した。窓際で逆さ吊りになった薔薇が疾うに黒ずんで、乾ききった花弁を一片一片落としていく様をぼんやり眺めていた繝溘は、青白い腕で腰の辺りを掻きむしり、欠伸を噛み殺しながら彼に言った。
「あの玩具は何処へ行ったの?貴方の冷酷さには時々ぞっとすることがあるわ。あれだけ熱を上げて執着していたと思ったら—ここ最近急に快活として何の憂いも無いような表情をしているんだから」
「そう見える?」闃アは目線を手元に向けたまま鬱陶しそうに答えた。この女は興味もない癖に、自分の動向にあれこれと口を出してくるから困る。
「彼は玩具じゃないし、」闃アは濡れた包丁の刃が光を反射するのを見ながら続けた。「例の如く行方不明で、僕が快活な訳がない」繝溘は笑った。
「行方不明?貴方に、何の断りもなく」彼女は心の底から楽しんでいるかのように意地悪く問いかける。闃アが黙って会話を続ける気も無いのを察すると、その反応に退屈したのかおもむろに姿勢よく立ち上がって、口笛を吹きながら部屋を出て行った。折れそうなほどに細い手足が、真っ直ぐに揺れていた。
 包丁を台所に放り出して、闃アは椅子に座った。朝一番の蝉が威勢良く鳴いているのを聞きながら、何をするでもなくぼんやりと肘をついて目を瞑った。まだ夜の空気を閉じ込めた涼やかな朝、緩慢に死んでいく部屋、仄かに焦臭い香りを孕んだ風の全てが奇妙な平衡を持って、彼を取り囲んだ。また花弁が落ちた。
 日差しが強くなってきて、カーテンを閉めようと立ち上がろうとしたとき、あの甘い匂いが懐かしく香った。闃アは振り向かずに聞いた。
「今度は何処に行っていたの?縺縺」
「何も言わずに一月余りも家を空けていた割には淡白な反応だね、闃ア」
「君は前科が多いからね」ようやく振り向いて、その光景を見たとき、彼はぴたりと固まった。思考が急速にまとまりを失っていく。
「繝溘の—」言いかけた言葉が、伸びてきた手に塞がれる。彼は囁くように続けた。
「やっと欲しかったものが全部手に入ったんだ。美しいものを所有したいというのは凡人に与えられた愚かで醜悪な欲望の一形態だが、天才にとっては屹度情熱そのものだ。この肢体は正に芸術だね?」
「何故、僕に会いに来た?」その声は震えを帯びて弱弱しく放たれた。
「最後の仕上げだよ。繝溘は友人が少なくて助かった。君で最後なんだ」そう言いながら、青白く細い腕が蛇のように彼に巻き付いた。少し体温の低い指先が、静かに首筋に食い込んで、後には蝉の鳴き声だけが残った。

 縺縺は冷たい肉塊にそっと手を伸ばした。通りを歩く女学生の、喧しい笑い声が夜道に響いた。「罪?」その言葉は、死体の口から発せられたようにも感じた。その声は続いた。
「君は不完全で、未完成で、愛おしい」その言葉は、それを解しえぬ彼自身にとって、呪いのように彼を苦しめた。道徳の規範、正義と相入れぬもの、生きていながら、完全を願うこと、全身から立ち上る命の噴出、奪うほかには能の無い生き方、浅薄な変身願望だけが歪に歪んで、復奪う。
 奪ってきたものが、愛おしくて仕方なかった。命が失われて初めて纏う煌きを、誰よりも愛してきた。衝動と懺悔、止めどない嫌悪の残穢が、この胸に満ちている。
 加害と贖罪で、この無為な生活を空虚に満たしたい。愛されたいなら、救われたいなら、奪い続けた美しさの全てが邪魔になる。 
 包丁はすっかり乾いた。陰鬱な照明の端が刃に反射して、青白い光を放った。迷いなく突き立てた刃が、救世主の様に美しく見えた。部屋に立ち上る濃厚な腐臭、恋人の残り香、甘い鉄の匂い。
 何が自分だったのか、何が貴方だったのか、何が悪だったのか、何が許されなかったのか。ぼんやりとした走馬灯の再生速度が遅くなっていく。鏡の中の刺殺死体が、耐えきれなくて口を吐いた。

「君が死体でも———僕は」

 黒ずんだ花束がバラバラと崩れ落ちた。出目金はまた、ゆるりと身を翻した。
 


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