2021年初春、7年付き合った人と別れてすぐの頃に凄まじかった反動的結婚観のメモが出てきたので原文ママで


 街を歩いたりインスタを見たりすれば世の中はカップルだらけなことが分かる。デートは楽しい!恋愛は良いぞ!とマスメディアからも個々人からも発信され、恋愛が是、というのは世の常識として流布している価値観だ。恋愛は経済を回すので資本主義社会にとっては都合が良い。多くの大人も恋愛の末に結婚しているのだからその選択をした自分を肯定するために恋愛を肯定するだろう。そして生物として子孫を残さなければいけないのだから、性行為に至る前段階として恋愛感情を抱くのは本能的に必然とも思える。

 しかし、恋愛が目的化されるのはいかがなものか?

 恋愛に個人としての人間関係の自由が制約されている気がしてならない。男女平等が叫ばれる世の中だからこそ、全ての人との関係をフラットな状態からスタートさせたい。だが、異性間の人間関係の評価は本能に性欲という下駄を履かされている気がして嫌になる。自分が性の対象になるのも嫌だし、自分の中のそういう部分も嫌だ。性別がある前に人間であるというのに。

「良い人がいたら紹介してよ」という言葉をよく聞く。当然、恋人候補と繋ぎ合わせてくれ、ということだ。だが、異性という理由だけでわざわざ無理に出会おう、相手を知ろう、仲良くしようとする必要はあるのか?と思ってしまう。
 友情はその多くが自然発生であるのに、男女関係は合コンなりアプリなり紹介なり、恋愛を目的とした人為的行為が多い。
 恋に恋するとはよくいったものだが、人々は恋愛の何に価値を期待して、欲しているのだろうか?

 「恋人ができた、結婚をした」といえば、おめでとう!と祝福される世の中に生きている。逆に恋人がいない、相応の年齢なのに結婚をしていない、というと「何故?」と聞かれる。前者はその過程や相手についてを聞かれることはあれど、本質的にその選択をした理由を問われることなどないのに!人として当然の選択であるような前提認識の社会のように感じる。

 恋人がいたり既婚であることを評価するのも一理あるとは思う。それが実現できる人間性やコミュ力の証左になるからだ。一定の保証にはなり得る。身を固める、という言葉がかつて使われたように、一定のパートナーを持つことで仕事に集中できる効果もあるのだろう。

でも全員がそれを望む旧時代の価値観だと思うなよタコがよ
生活の安定や子が欲しいという目的のために結婚という手段をとるのはあるかも、良い意味での相互依存、水平的分業は効率的生存戦略だなあと

気の合う人がたまたま異性で、もっと知りたい、時間を共有したい、と思えたら友情よりも拘束性の高い仲になればお互いに割くリソースが増えて人間関係の中心となり満足度も上がるのだろう
精神的満足を与える手段としての肉体的満足=セックスがあると思う、それは同性間では生理的に与えられないものだから友情よりも踏み込んだ関係というのは分かる
ただ、セックスを目的とする人多すぎるやろキモイなあ、セックスは手段ちゃうんか

子供を育てるという経験はしてみたいなと思うが、それに至るまでの恋愛や結婚は自分の中の価値観としてどれほど優先すべきものなのか?
孤独感などという曖昧なものを恐れた結果が結婚か?生き物だなあ

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