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竹林亮「14歳の栞」

 14歳だった自分が閉じ込めていた色んなやわらかい感情が、スクリーンに現れた。
 見せてもらっていいの?というためらいすら感じた。今作が実現できたこと自体が希望だ。

 作中で映された谷川俊太郎の
「あなたは愛される 愛されることから逃れられない」
この言葉が今作の見方としてあると思った。

 人は他人と関わらずに生きることはできず、誰かを愛さずには生きられない(恋愛的な狭義の愛ではない)。
 しかし、何かを好きと言うことは別の何かを嫌いと言うことと同義とも取れ、つまり全てを愛せる訳ではない。その中で悪意はなくともお互いを傷つけ合うことはどうしたってある。

 印象的だったのは、別室登校の子への関わり方だった。写真撮影に来たいかどうか、先生が彼に聞いていたが、その自由意志の尊重は自己責任論に転じてしまう。(先生批判では無く、構造としてです)
 仮に行きたかったとしても言い辛いことは明白であり、行く決断をする為の言い訳が彼には必要だった。その点で、別室登校のきっかけを作ってしまった子は
「俺が君に来て欲しいから来てくれ」
という背負い方をしていて配慮が濃やかで凄かった。
 その優しさは悔いているからであり、優しいから悔いているのだろう。そこへの関心がなくなってしまった、と言った女の子がきっと普通なんだろうし、彼らの関わり合いは正解ではなかったかもしれないが、決して無意味ではなかった。

 コミュニケーションが孕んでいる加害性を認識してしまうと、コミュニケーション自体が恐ろしくなってしまうことは実感としてある。
 だが、野山で完全自給自足サバイバル生活でも送らない限り、人との関わり合いを避けては生きられない。その茫漠とした恐ろしさに畏怖して立ちすくむこともある。だとしても、自分の有限性を受け入れた上で、デカルト的に分解してひとつひとつ向き合っていくしかない。

 mono no awareの東京の
「みんながみんな 幸せになる方法などない
無理くり手をつないでも 足並みなどそろわない
でもみんながみんな 悲しみに暮れる必要はない
無理くりしぼり出したら それはもう涙じゃない」
くらいの気持ちでいいんだと思う。

 そして、今作は教室が舞台だったが、全然別な場所での関わり合いに重きを置いてもいい。教室を居心地悪く思ってるの子の方が、本質的な居場所を見つけられているのも皮肉なもんである。教室では数の論理が強く、クラスの人間関係の中心にいる方が是とされているように思う。そういう均質性を持っている方が教師も管理しやすいだろうし。

 だが、教室に居場所がないからこそ外にサードプレイスを求めた子たちの方が、本当に好きなものや居場所を探す機会はあるのかもしれない。中高生の頃はやっぱりどうしても学校が生活の殆どだから、その外に目を向けられるのはある種の強さでもあると思う。「桐島、部活やめるってよ」での東出昌大と神木隆之介の対比が思い出された。


 14歳当時の自分では自覚するのは難しかったと思うが、14歳まで生きてこられたのは、誰かからの愛の賜物である。それに対する感謝を持つべきなのと同時に、誇りもまた持つべきだ。例えいま自分のことが好きじゃなくても、好きなものがなくても、誰かからの愛によって自分が存在しているのだ、と無条件な自信を持っていい。その上で人と出会って関わっていって欲しい。それがまた自分や誰かの居場所をつくることになっていけば、本当に素敵だと思う。


 この作品を実現させる為の全ての関係者の協力なんてどうやったら得られるのか。途方もない労力に感謝したい。時代が下るほど、もっと作るのが難しくなるタイプの作品だからこそ、観られる機会があるなら逃さない方が良い。

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