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沖縄戦の軌跡


              【加筆中】
 私がなぜ沖縄戦の詳細に拘るのか…というのは「沖縄は捨て石にされた」という言説が西側GHQによる作られたプロパガンダだからであり、戦後80年経とうとする今もってその偽説がしつこく繰り返されるからです。
沖縄戦のみならず悲惨極まる戦いは南洋でも東南アジアでも展開されました。なのに沖縄戦だけなぜ「捨て石にされた」という言説が罷り通っているのでしょうか⁉️
 それは沖縄戦の真実でも述べたように、沖縄の地は西側のペリー来航以来、彼らが手に入れたかった不沈空母基地だったのです。ゆえに日本本土攻撃いの一番に沖縄に来襲したのです。
戦後は彼らの意向通り、沖縄を米軍のアジア本拠地としました。ゆえに西側には沖縄を手放す計画は毛頭ありません。

 戦後、彼らは占領を優位に進める為に戦時中の戦時国際法を破った悪行を大日本帝国にすり替えて擦り付け、「日本軍人は非道だった」究極は「大日本帝国は沖縄を捨て石にした」と宣伝流布そのプロパガンダに乗せられた戦後の沖縄県民は日本国に対する反抗心を募らせ、今もってGHQのプロパガンダ「捨て石論争」は静まるところを知りません。ここに西側の常套手段=分断工作
見事に成功しているのです。
私たちはこうした西側の国力を弱める分断戦略に乗ってはいけません。その為に沖縄捨て石論争を一掃すべく、沖縄戦の軌跡を辿っています。

 沖縄戦は日本本土に於る決戦だったゆえ、戦歴の詳細が伝わっています。
米軍54万人の兵士に対して迎え撃つ日本は18万人、戦力差は10倍でした。
大東亜戦争終盤の兵士も兵器も石油も食糧も尽きていく中、日本軍と兵士達そして沖縄志願兵、
全国から集まった有志達は必死の遊撃を決行しました。その戦いぶりは日本の伝統精神に則る凄じいもので、涙なくしては語れない軌跡です。
 南の島の沖縄ではどの戦いも遊撃ゲリラ戦で、水や食糧•軍需品など補給も出来ない無い無い尽しの日本軍は、それでも戦力差10倍の米国を翻弄して止みませんでした。
その強い精神力は日本根源の伝統精神です。

 戦いの中に突発する残酷な場面は、それこそが「戦争」という人間同士が命を懸けて殺し合う不条理から生まれたものです。
インド•東南アジア•南洋での戦歴はもっと残酷窮まるものであった事に想いを至し、戦争が終わる新しい時代の到来を知って、日本国を守ってくれた英霊の方々に感謝を捧げ、多くの民間人が犠牲になった戦争という残酷さに、平和への不戦の誓いを新たにしましょう🌸🕊

《沖縄戦の全景》


《血染めの丘》 
 沖縄戦では嘉数高地の戦い•前田高地の戦い•
シュガーローフの戦いと日本軍の激しい決死の抵抗戦が行われました。終戦を目前にした日本軍には、敵国米軍と充分に戦う資力戦力は残っていませんでした。沖縄戦では硫黄島の戦いと同じく地下壕の要塞を建造して、八原大佐の守備攻撃に徹する寝技戦法にて、戦力差10倍の米軍を迎え撃ちました。
 サイパン•ペリリュー•硫黄島の戦いは、絶対国防圏を破られた後がない戦いであり、日本軍は迫り来る米軍から日本国土を守る為に、兵士も戦力も全てが不足する中、必死の対抗戦により1日でも長く米軍を足止めする戦法に徹しました。

サイパン•ペリリュー•硫黄島も米軍は陥落するのに2-3日或いは1週間と見積もっていましたが、
日本軍はいずれもそれを上回る1ヶ月•3ヶ月と
長期戦に持ち込みました。それは何としても本土を防衛するためで、沖縄戦も同じように1日でも長く敵の来襲を食い止める戦いが展開されたのです。
 それをどうして沖縄だけが本土防衛の為に
「捨て駒にされた」と言われるのでしょうか⁉️
サイパン•ペリリュー•硫黄島も沖縄と同じように本土防衛の為の渾身の抵抗戦が行われたのです。
ならばサイパン•ペリリュー•硫黄島の戦いも
「捨て駒にされた」とでも言うのでしょうか?

 沖縄戦だけがあえて「捨て石」と言われるのは
西側占領者による分断支配戦略なのです‼️
沖縄県民と日本政府と分断して、沖縄県民が政府に反抗的であれば、西側の思うように操作する事が出来ます。
その為に〈日本政府は沖縄を「捨て石」にした〉
というプロパガンダで沖縄県民の日本政府に対する反抗心を巧みに操り、そうして彼らの計画=沖縄を西側の極東アジアの最大軍事基地としていつまでも占領する事を実行しているのです。

しかし大きく世界勢力が転換する時となり西側勢力の壊滅は目前に迫って来ているので、沖縄が西側の占領から解放される日も近いでしょう。

《シュガーローフの戦い》
 シュガーローフの戦いはアメリカ海兵隊史上
最大の激戦となりました。日本軍の地下要塞を構築しての凄まじい抵抗戦は米軍を翻弄し、余りの恐怖に精神錯乱して戦闘から離脱する米軍兵士も続出しました。
米軍からは「全ての地獄を集めた戦い」と言われる日本軍の決死の抵抗戦を見てゆきましょう。

●前編
https://youtu.be/9_TCk47jx_o?si=15U6AYWyqFDJx8fV
●後編


《義烈空挺隊》
 義烈空挺隊の活躍も特筆すべき戦いでした。
敵陣地に乗り込んでB29を壊滅させる特攻作戦⁉️
必死の特攻を決行した勇士を忘れません💧💦


《堕とされたB29》
 最終盤の戦いに、日本軍は一方的にやられたような印象があるかもしれませんが、そこは大日本皇軍!かなりな確率で米軍にダメージを与えているのです。中でもB29を相当数撃破しています。
日本皇軍は強かった‼️のです。


《運玉森を死守した歩兵隊第89連隊》
米軍の突破を許さず玉砕した将兵英霊の方々!


《多くの兵士を失った棚原の戦闘》


《独立高射砲第27大隊の戦い》
  初めは72砲もあった高射砲が、最後は1砲のみとなって戦った。大隊574名/464名戦死。
https://youtu.be/tf9T48fRQCY?si=W4GMkosc6FqSEqbP


《アイヌ出身の兵士が沖縄戦を戦った》
 この動画の中で、日本兵がガマから住民を追い出したという証言がありましたが、米軍と戦うのは兵士であり、戦争最終盤の日本軍も窮乏する中住民ならば投降すれば捕虜として保護される道が残っていました。兵士は兵器も食糧も無い無い尽しの中、玉砕するしかありません。
日本兵としては勝たなければならない戦闘に、要塞=ガマはどうしても必要です。勝つ為には要塞も何もない所で只ただ 死ぬ訳にはいかないではないですか……
 世界一軍律厳しく統率正しい日本軍ではあったけれども、敗戦迫る悲惨な状況下にこうした悲劇のあったこと…戦争とは残酷なものである事に思いを至し、だからこそ「2度と戦争はしてはいけない」という戦争体験者が皆な口を揃えて残した金言を、尚更に胸に刻みたいものです。

  つづく

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