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学徒隊の戦い

   淀みなく奮い励みし健児らの
       若き血潮ぞ 空を染めける

 大東亜戦争終盤、義勇兵役法として1945年6月
15~60才男子•17~40才女子に義勇兵役を課し
軍組織に編入する義務が執行されました。
 沖縄では14~17才の少年兵組織として鉄血勤皇隊
護郷隊•防衛隊•義勇隊
などの学徒隊が学徒動員令によって結成されました。
 2万数千人の沖縄兵の内、男子1500人•女子500人は学徒隊として参戦、1945年4月9日には学徒隊は遺書を書いています。少年にまで兵役を課したのは沖縄戦だけでした。大東亜戦争終盤、全てが不足する中、それほどまでに兵士も不足していたからでした。

 とても褒められない少年少女の義勇兵が組織されましたが、人間として、小さな三つ児にも親や兄弟が危機に瀕したら何としても救おう!とする本能が備わっています。
14才ほどに成長して、それも日本国最大の国難が沖縄県の地元に迫った!と当時に身を置いて考えてみれば、私なら戦うことを躊躇しません。寧ろ戦わない選択をしたなら、後々 後悔した事でしょう。皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 やむなく編隊された少年兵や女子従軍看護兵…
それは大日本帝国としても止むに止まれぬ選択であったはずです。
こうした中で組織された、特に護郷隊は、中野学校出身の幹部将校によって訓練されました。
第1護郷隊は終戦後もゲリラ戦を続行し、何と
1946年1月3日まで戦い抜きました。それは現地の地の利に通じていた事と、地元ならでは食料調達が叶った事が長期戦を支えました。
少年らは34回のゲリラ戦闘を戦い、ペリリュー島の激戦で活躍した精鋭部隊の米軍第1海兵隊をも駆逐する大活躍の戦果も挙げました。
  第1遊撃隊=ニューギニア
  第2遊撃隊=インドネシア東部
  第3遊撃隊=第1護郷隊 村上治夫隊長
         1946.1.3.投降
  第4遊撃隊=第2護郷隊 岩波壽隊長
         1945.10.2.投降

少年兵士といえど戦争終盤の激戦に斬り込み隊として特攻作戦を遂行したことは、まことに激熱な涙を禁じ得ません。
    護郷隊 1000人/162人戦死
    鉄血勤皇隊 1780人/890人戦死

中野学校
1940年発足 2500人卒業
1994年9月から42人が沖縄入り、幹部将校15人
 沖縄が玉砕した後も生き残り遊撃戦を続行しろとの命示の下、少年ゲリラ隊を組織しました。

護郷隊少年兵士

《第3遊撃隊=第1護郷隊》

《護郷隊の戦い》詳細
https://youtu.be/aol4H6BLqVk?si=m7MWTDVDyFtI71-x


《第1中鉄血勤皇隊のゲリラ戦》
https://youtu.be/ynISVInfW5Y?si=UuU9NEPhsXUHOYtG

《女子学徒隊》 
  巌かげに一筋の黒髪乙女ごの
      自決の地なり 波もとどろに
  島果てに華と散りにし愛し児よ
         夢安らか眠れとぞ祈る
ひめゆり学徒隊•白梅隊•ずいせん学徒隊•梯梧隊
なごらん隊•宮古高女学徒隊•八重山高女学徒隊•八重農学徒隊…の看護婦隊

《積徳隊》
「決して死んではいけない。生きてお父さんお母さんに会いなさい。そして戦争の悲惨さを伝えてほしい。」  〜小池隊長の言葉〜

《従軍看護婦が体験した沖縄戦》
https://youtu.be/Ouzf09LiG5Y?si=tgr5DS3oenDKIbXK

   つづく

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