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無意識が意識的に駆使をして1の並びに導きし話

さっきPCの時計を確認しようと隠れているバーを表示させたら、11月11日11時11分となっていました。
書く内容はこれに決まりです。ゾロ目です。
今日はゾロ目記事が他にもあるでしょうけど、この記事は最高に面倒くさい話になることでしょう。

高校生のとき、勉強中などホントによく見かけました。
時計を見るたびに、11時11分、12時22分、1時11分。ああ次は2時22分だなと思っていると、やっぱり2時22分。
12時34分や1時23分もよく見かけました。
6時66分は幸い見なかったです。

当時は時計が呼びかけてきているような感覚がありました。
さあ見ろ、今見ろ、ほーらゾロ目だぞという感じでした。

さきほど「時計・ゾロ目」でネットを検索すると、ヒットする記事はスピリチュアル系だらけでした。
これを見ると幸運が訪れるサインだとのことです。数字にはパワーがあるのだそうです。波に乗っているのだそうです。エンジェルナンバーとかいって、数字にはそれぞれ意味があるのだそうです。
似たようなブログだらけでした。どこかに元ネタがあるのかな。みんながそれを書き写しているようです。

さて、このボクが波に乗っていたのかどうか。
今朝の体調は、ここ1年でのワースト3くらいでした。寝ながらひどい汗をかいていたので、夜中に2度も着替えました。5時起床予定が7時前まで動けずでした。
体調的に波に乗っているとは思えません。

他のネット記事では、知恵袋ページにゾロ目への質問がありました。
なぜゾロ目を見てしまうのでしょうかと。
多くの人がゾロ目頻出に不思議がっているようです。
回答として多いのは、単なる偶然であり、印象深いので記憶に残っているだけだというものです。
知恵袋ページにしては珍しく知恵のある理性的な答えです。今毒を吐きました。

さて、ボクの考えです。
偶然かスピリチュアルか、そのどちらでもないと思います。
まずゾロ目が偶然ではないという確信があります。高校の時の部屋では、時計は振り向かないと見えない位置にありました。わざわざ今何時だろうと振り向く行為は、何気ないものではなく、記憶に残るものです。だいたい何時かと思って振り向くときは、おそらくゾロ目だろうと思って振り向いて、ほらみろと思ったことの方が多い、というか圧倒的だった記憶です。

また今日見たゾロ目は、PCを開いて以来約3時間での最初の時刻確認だったはずです。
「えっ、もう11時?」とも同時に思ったので、それまでしばらくの時刻の感覚はありませんでした。
何度か時計を見ていたら、そろそろ11時すぎという事実は、感覚と違ってなくて合点がいったでしょう。

要するに、経験上、偶然と言えない確率でゾロ目を見ているという確かな実感があります。
それでいて、スピリチュアルなことでもないだろうとも思っています。

スピリチュアルでないと言える理由は、説明不可能です。
そもそもスピリチュアルを肯定する理由は合理的に説明不可能でしょう。なのでその反証の立論は困難です。
もっと他に合理的な理由があるからスピリチュアルを棄却しているのです。

では何なのか。
簡単です。
時計を見なくても無意識が正確な時刻を知っていて、ゾロ目の瞬間を知らせているからです。

ただし、これを一般的な解答だとは思っていません。
多くの人にとっては、偶然で、単にゾロ目だけを記憶しているのでしょう。
少なくともこれは「ボクにおける解答」です。
ボクの無意識は正確な時刻を知っているのです。
無意識は正確に時間を刻んでいて、ゾロ目になったことを知らせているのです。

今朝、いつものルーティンをこなしながら、ああ今日は11月11日だ、と思いましたが、日付がゾロ目だとは強く感じた記憶はありません。なので、11時11分が来たら、1がいっぱい並ぶぞとは微塵にも思いませんでした。
ただ無意識はそれを意識したでしょう。無意識が意識した?って変な言い方ですが。とにかく無意識はそれを認識したでしょう。

そして7時から8時あたりで時計を見た時に、例えば今は7時55分だな、などと無意識も意識も確認したでしょう。
そこから無意識は正確に時間を刻んで、今は10時13分だ、今は10時55分か、などとカウントアップしていったのでしょう。
そして遂に11時11分となったときに、おお!今、1並びだ1並びだ1並びだと発火した(興奮した)のです。
その興奮のさざ波が意識に上がってきて、意識がふと今何時かなと思い、やおらと時刻を確認した、ということだと思っています。

おそらく高校生の時のゾロ目や、他でも経験したゾロ目の多くは、無意識が知らせてくれたのでしょう。実は当時からも、そんな理由だとは薄々感じていました。

そしてもうひとつ、今回の無意識はゾロ目を単に知らせただけではなく、これをきっかけにゾロ目と無意識に関する記事を、まんまとボクに書かせようと導いたような気がしてなりません。
なぜそう思うかの合理的な理由はあるのですが、説明が冗長になりそうなので割愛します。

意識は、無意識が決めて行動したことを単に認知して記憶しているだけで、無意識が決めたその理由は後付けで考えて納得しているという説(受動意識仮説;前野隆司氏)があるようです。多くの実験でそう言えるのだそうです。

さきほど、「無意識が興奮して、意識がふと今何時かなと思い、やおらと時刻を確認した」と書きましたが、上記の説によると「ゾロ目になったから無意識が時刻を確認させた。その行為の後で意識は『ああ、今は何時なんだろうと興味を持ったから時計を見たのだ』と後付けの理由を考えて、意識の自由意志による行動だと思い込んでいる」ということなのです。
無意識の決断→行動→意識の認知→意識による行動の理由付け、という順序です。

つまり意識は無意識の無知な奴隷なのですが、意識も無意識も自分なので、自分自身は奴隷でありながらも完全に自由なのです。
ほーら冒頭言った通り、面倒くさい。

そのようなことを意識するようになってから意識的に無意識について無意識的に意識するようになりました。意識はここで記事を終わらせるのが妥当と判断しましたが、それは無意識による決定であることを意識は無意識的に感じています。

あと、どうでもいいですが、本文よりタイトルを考えるほうが時間がかかってしまいました。31音中20音がイ段なのね。自画自賛。
ほーらどうでもいい。それではまた。

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