15時6分11秒~

 14時57分32秒。

 昼の暑さを乗り越えてこれから涼しさを取り戻すかという時間に、僕は公園で一人、様々な家族の声に聴き入っている。
 別に疲れているわけでもないし、落ち込んでいるわけでもないけど、一人では味わえない賑やかさにしかない癒しが欲しくなる時がある。
 今日は特に人が多い。どうやら近くで子供向けのイベントがあったらしく、熱にあてられた子供達がここに体を動かしにきている様子。
 自販機で買ったナタデココ入りのジュースはすでにぬるくなっていて、気づけば数十分ここにいることになる。
 同じ遊具に何度も挑戦する声、親の笑い声や怒る声、犬の鳴き声、車の音、遠くで走る電車の音と、踏切の音。無音であるはずの太陽からも、穏やかな音を感じてしまうほど、賑やかで心地の良い空間。
 日曜のこんな時間に、何に急かされるでもなくこうやって居られることへの感謝を誰に向ければいいのか。生まれてからさっきまでの僕だろうか。よくやった、よくやってる。
 とはいえ子供連れでもない男が長時間ベンチを占領するのも申し訳なくなってきたのでそろそろ帰ろうか。
 別に何も悪いことはしてないんだし、引け目を感じることもないのだけど「理由がない行動は気味が悪いぞ」と僕の自意識が囁いてくる。
 悪いことじゃない。人に害を与えない、与えかねない人にならないための自衛です。
 0から言い訳を組み立てて、すっかり座り姿勢に固まった体を動かそうとすると。
「あーっ」
 男の子の声が、とても一直線に響いてくる。
 咄嗟に目を向けてみると、彼は視線を空に向けていた。

 赤い風船がふらふらと、昇っている。

 何かの拍子に手から離れたのだろう、彼の手はまだ、風船をもっているそれだった。
「あー、行っちゃったねぇ」
 母親も風船に目を向けながら、彼に慰めの言葉を溢す。
 程なくして、彼は少しずつ泣き始めてしまった。
 その泣き声は、他の子供が気にしたとしても仕方がないほどの大音声にかわり、母親は彼を抱っこしてどこかへ去って行った。
 僕は、すでに手が届くはずもない風船を見る。
 辿々しく、しかし着実に上へ上へと昇る赤い風船。
 こんな時、自分がヒーローだったなら、颯爽と飛び上がって彼のために風船を取ってあげられただろうか。きっと、できたはず。
 でも過去、これまで僕がヒーローだった瞬間など1秒もなく、故に、当たり前にあそこまで飛び上がる能力なんて持ち合わせてもいない。もう取れない。
「お父さん、風船~!」
 僕の他にも今、風船を眺めている人がいる。持ち主だった彼は母親の肩に顔を埋めて、目もくれていない。
 あの風船は彼のものだった。割れるでも萎むでもいい。最後の瞬間まで彼の手にあれば、少なからず一人、ここでは泣かずに済んだのかもと思うと、自明の無力感に阻まれて、僕はまたベンチに腰掛けてしまう。

 日曜日、良い日だ。
 晴れている、良い日だ。
 家族で出かけられる、良い日だ。
 イベントで風船を貰った、良い日だ。
 公園に寄った、良い日だ。
 風船を手放してしまった、

 僕は、これから家に帰った彼が、こんなことをすっかり忘れて美味しい晩御飯に笑顔で食らいついてくれることを願っている。
 君の分、僕が落ち込めたらいい。

 14時21分44秒。

 好きな音楽に包まれて、好きな時間に起きられる、そんな日曜日が大好きすぎる。
 寝てる間に音楽を流してると頭が休まらないとか言われてるけど、全然そんなの関係ない。これの方が寝れるし、起きた時に音があることの方が私には大事。
 床に広がる要洗濯の服たちを足で退かせて、キッチンへ向かう。「一人暮らし、かくあるべし」な空間で、昨日買ったサラダを取って出しで皿に盛って、ごまだれをぶちまける。
 結局野菜なんてものは摂取できればそれでいい。美味い旨い。
 さて、今日、やるべきことなどない今日! 私は部屋をめちゃ掃除する!
 まずは長らくやってなかった換気をする! 窓よ開きたまえ!
 ここ数日の曇り空から一発逆転の大晴天が私の目を刺す。
「つよ……」
 顔を顰めながらも、アパートの3階から街を見下ろそうとしたその時。
 空に一点、赤い何かがあることに気づいた。

 赤い風船がふらふらと、昇っている。

「わ~」
 なんの起伏もない感嘆の声が出て、私は風船から目が離せなくなった。
 遠くのことなのでわからないけど、きっと今、私の目線ぐらいの高さに到達している。
 右に上に、左に上に、奥に上に、手前に上に、徐々にどんどん高くなっていく。
 なんか近くであったのかな。別に調べないけど、なんか幸せで良いな。
 しばらくして、風が風船を奥へと追いやり風船が砂つぶよりも小さくなって色すらわからなくなってようやく、私は我に返った。
「掃除をするんでした」
 開け放った窓に網戸を引いて、振り向く。あぁ、雑多な服・ゴミ・物たちよ、今日で君たちには帰るべき場所が与えられる。
 一般的な教育を受けたはずの私なのだが、普通に食べ終わったコンビニ弁当の殻が処理されないまま残っている。虫! イヤ! ゴミ箱です。
 服は総じて洗濯カゴに放って、二度に分けて洗濯機をブン回す。今が15時過ぎだから、まぁ今日は乾かんでしょう。明日着る服があればいいのです。
 さぁ、使いっぱなしの化粧品たちもポーチへ戻れ、戻るんだ! なんで入りきらないことがある! ここらで一旦、部屋用と出先用に分けますか。
 それやるなら座りたいし、テーブルでやりたいな。
 座る場所作るため、再び足で物を退かす。
 そしてテーブルの上にある物を一旦下ろして、スペースを作る。
 あぁこうやって巣ができるのかもしれない。あ! 靴下が片方だけある! なんで君たちは別行動してしまうの? 一蓮托生でしょマジで。
 さて、と。スペースができました。音楽だけだと味気ないのでYoutubeを流しましょう。
 ちょっと待ってそういやあのチャンネルの最新動画まだ観てなかったわ。作業しながら観るかぁ。
 私このファンデ買ってたっけ、じゃあこっちで。このアイライナーはよく使うからこっち、リップは間違いなくこっち。あはは。……チーク! 君を探していたんだよ私は! 見つかってよかった。あはは。
 なんて言ってる間に洗濯機が鳴き始めた。え、そんな時間経ちました!?
 気づけばYoutubeがもう関連動画を二つほど再生し終える時間が過ぎている。
 そしてさらに気づけばもう私の手は作業なんかせず、部屋に転がっていた知恵の輪を解こうと頑張っている。何が起きているのか。
「しゃーない……」
 洗濯物を取り込み、第二陣を放り込む。よくもまぁこんなに溜め込んだものだし、それでも着る服があるものですよ。
 洗濯ハンガーにパチパチ吊るして、ソロのハンガーをバシバシ通して、閑話休題! 巣を破壊する。
 ゴミはどう転んでもゴミなので、真っ先にやるべきだった。
 ポイポイ放り込んでいくと、リズムに乗ってくる感覚が芽生える。
 良い感じ、これ今日完璧に終われるんじゃないか。
 通知音。スマホを出すと、友達から飲みの誘いが来ている。
「飲み、あ~~~~~」
 私の天秤はぶっ壊れているので、物言わぬ部屋よりも多弁な友達を無条件で選んでしまう。
 わずかながらに残った自制心で、「あと一時間で洗濯終わるから、それまで待って」と送る。
 結論、掃除とはゴールのない旅である。いくら歩いてもその道は続いていく。
 服を選び、化粧を施し、準備をしている間に、本日二度目の鳴き声。
「よく頑張ったね~」
 無意味な感謝の言葉だって述べますよ。これさえ干せば私、友達に会えるんですもの!
 取り込んだ洗濯物を干そうとして、私は絶望した。
 もう洗濯ハンガーも、ソロのやつも、ない。
「あっれ~~~~」
 あっれ~~~~も何もない。大量な洗濯物をかけられるほどの設備がうちになかっただけのこと。
 やばいので、今クローゼットの中にあるソロハンガーイン服たちの中で、シワになりにくいのだけベッドに放る。
 そして空いたハンガーに、洗濯ハンガーのタオルとかを掛けて、無理やり設備を増築する。錬金術とでも言おうか。
 無理したおかげで無事全て干すことに成功し、私は家を出られる状況まで辿り着いた!
「んははっ」
 思わず笑みが溢れる。なんかさ、さっき見た風船みたいだな、今日の私。掃除するっつってんのに色んな寄り道して、仕舞いには終わらず娯楽の道へ行く始末。でも少しずつ掃除は進んでいるのだな。
 いつかこの旅を終えることを願って、私はこれから今日一番の寄り道へ出向く。
 良い日かも! 良い日でしょ~!

 11時27分21秒。

 初めて鎌を買った。言わずもがな草刈りのためなのだけど、鎌を買った帰りの作法が微妙にわからない。これって銃刀法違反? でもしょうがないよな……必要なんだもんな……。
『これから帰るから、昼過ぎには始められるよ』
『はーい、待ってます』
 母さんから送られてくる笑顔の犬のスタンプを確認して、恐る恐る店を出る。まぁ、職質受けたところでちゃんと話せばわかってくれるだろうけど。警官もそこまでバカではないと思うし。
 それでも拭えない心なしかの心配で、リュックを前に抱えて、実家まで戻る。
 上京して数年、嫌々やらされていた草刈りをできる人がいなくなったため、雑草が蓄えられた頃に呼び戻され、やらされている。両親は共に腰が悪く、まぁ草刈りをやろうと思えばできないことはないものの、それで怪我をされてもたまったものではないからこれは俺の役目ってことにしている。
 長年使っていた鎌は根元の方が錆び散らかして折れてしまったので、今日は新調しにきたのだが。買ってくれといてもいいじゃないかとは思う。
 嫌な懸念は杞憂となって、無事家に帰ってくることができた。思い返せばわざわざリュックを前で抱えている方が数段怪しいことに気付き、さらに言えばこんな田舎でわざわざ俺のことを職質するほど警官もうろついていないこともあって、マジで杞憂に疲れたな。

 リビングに入ると昼のワイドショーを観ながら母さんはお菓子をつまんでいた。
「おかえり」
「ただいま。すぐ始めるけどいい?」
 そう言うと母さんはせかせかと立ち上がった。
「じゃあタオルとジャケット持ってくるね」
「あいあい」
 母さんは二階に上がり、そのついでに部屋で何かをしている父さんに「草刈り始めるって」と伝え、タオル、汚れてもいいジャケットを持ってきた。
「靴はどれ使っていいんだっけ」
「これこれ」
 そう言いながら靴箱の奥から出てきたのは白とも灰とも言い難い色のスポーツシューズ。
「あ、ズボンもか」
「いいよ、これすぐ捨ててもいいやつだし」
 以前の草刈りの際、実家の残りズボンを穿こうとしたら身長が合わず如何ともし難い恥ずかしさを感じたため今回は自前のを用意した。
 まだ太陽は高く、この季節にしては暑い。まぁ真夏じゃないだけましか。
 多分、草刈りとかは伸びきりの夏ど真ん中か夏終わり頃にやるのが良いとはわかっているものの、流石に近年の気温を鑑みると我慢ならんということで、その時期に呼ぶのだけはやめてくれと頼んである。都内も十分暑いが、ここはそれより暑すぎるから。
 庭を眺めると、昔ビニールプールを出してもらった時とは比べ物にならないほどの大自然に包まれている。
 人が住まなくなると家は壊れるというけど、それって部分的にもそうなんだろうか。
 この家の子供は俺一人で、小さい頃はよく遊び、思春期の頃はよく部活のために運動していた。
 この草刈りを「呼び戻された」なんて言ったものの、俺としては恩返しの意味が強い。金銭面での援助が難しい収入であるが故に、こうやって行動で示すのだ。
 もちろん自分のためでもある。長らく過ごしたこの庭を、みずぼらしいままにしたくない。
 ひとまず窓から出て縁側にゴミ袋を置く。
 あとはもう、ひたすら草を刈りまくる。
 新調した鎌は信じられないほどよく切れて、何度か怪我するかもって勢いで俺の足を狙ってきた。
 あヤバいこれ長靴の方がいいかもしんない。常識か、これは。
 でも長靴、おそらくうちにはなかったはず。聞いてみて、無いと用意しなくちゃなぁと思ってしまうため聞かずに進めていく。
 結局雑草ってのは根本から刈り取らないとすぐに生えてくるらしい。でも去年思い切り根絶やしたのに今年こんなに伸びてるってことは、あんま関係ないってことか。

「アイス食べる?」
 しばらくしてから母さんがアイスを持ってきた。
「食べる食べる」
 気づけばもう何時間も草を刈っていたらしい。存外、この作業が好きなのだと、毎度気付く。
「ありがとうね」
 差し出されたアイスを手に取ると、軽くお礼も賜る。
「全然。にしてもよく伸びるねここの雑草は」
「日当たりがいいからねぇ」
 縁側に腰掛けてアイスを口にする。適度な水分補給は大事なんだ。すっかり忘れていた。
 すると母さんが隣に座る。
「この庭ねぇ、綺麗になると気持ちがいいのよ」
「そりゃあもう、そうだろうね」
「私もやりたいんだけどね」
 気持ちだけ、と伝えてアイスを食べ終える。
「定期的に帰ってくる理由にもなるしちょうどいいからさ」
 アイスのゴミを受け取ってもらい、作業を再開しようとしたその時。
「あ」
 母さんがぽつりと声を発した。
「ん?」
 見ると、母さんは空の方を見ている。
 視線の先を探ってみると。

 赤い風船がふらふらと、昇っている。

「あ~、離しちゃったのかねぇ」
 残念そうに母さんが呟く。
 うちから歩いて5分ぐらいのところに大きめの公園があり、そこで遊んでいた子供のものだろう。
「ほら、あそこで今日ヒーローショーがあったみたいでね」
 母さんのいうあそことは、俺が鎌を買った場所。複合施設になっており、書店やフードコート、併設してホームセンターまであるショッピングモールだ。
「あー、そこで配られたんだ」
 赤い風船は、風に煽られながら覚束ない足取りで太陽へと向かっていく。
「……」
 別にどうすることもできないし、といった沈黙が続き、いよいよ作業を再開しようとした時。
「思い出すなぁ」
 母さんは懐かしげにそう溢した。
「何が?」
「ほら、風船。昔小さい頃にあそこでもらったの覚えてる?」
 言われてみればそんなことがあったような気がしないでもない。
「あ、ったかも」
「リーダーのレッド、何レンジャーだったか忘れたけど、レッドが欲しいって言ってすごいウキウキで持ってたのに、帰り道離しちゃったじゃない」
 多くの男児がハマる戦隊モノ、御多分に漏れず俺もそれに熱を上げていた時期があった。今はもう観てないし、今となっては何レンジャーだったかも思い出せないけど、その情景はうっすらと思い出してきた。
「あったかも」
「どうしても欲しい~って言ってた風船なのに手放して、大泣きしてたんだから」
「その節はお手数おかけしました」
「それからの方がお手数だったからぜーんぜん」
 そうでしたか、マジですか。割と落ち着いた実家暮らしをしていたつもりなんだけれども。
 今一度風船を見やると、思ったよりまだ近くで浮遊している。
 あれの持ち主だった子も、今泣いているのだろうか。親は、それを見て慰めに奔走しているのだろうか。
「なんで離しちゃったのかな」
 俺は、言うつもりのない疑問が口から出ていたことに、驚いた。
「ん?」
「……いや、手をさ。そんな大事な風船を、なんで手放したのかなって」
「あー」
 ま、今考えてもわからないだろうから、作業を再開した。

 開始した時点から、順当に雑草が減っており、あともうひと頑張りで全域が終わる。広さとしてはそんなでもないおかげで、陽の高いうちに終われるのがこの庭の利点だ。
 気付くと母親はリビングに戻っており、先ほどの俺の疑問は意に介していないようだった。
 まぁそれでいいものの。どうして急に口を突いて出てきたのだろう。感傷に浸りたいわけでもないだろうに。
 草刈りをどんどん進めていき、ようやく終わりを迎える頃。刈った草の奥から、泥だらけで空気の抜けたゴムボールが出てきた。
 これまでの草刈りでは見つからなかったものが、なんで今。
「母さーん」
 いそいそとリビングから出てくると、俺が手に持っているゴムボールを目にして、母さんは言った。
「ジャンボのだね、それ」
 ジャンボ。ジャンボ? なんだそのデカそうな名前。
「あー、覚えてないの? ほら、迷い犬の」
 頭の奥で、キュピーンと音が鳴った気がした。
 ジャンボ、ジャンボ! ゴールデンレトリバーの、ジャンボだ!

 幼少期、ほんの少しの間だけうちに犬がいたことがある。
 迷い犬で、首輪に掛けられたドッグタグからジャンボ、という名前だけがわかっていた。
 うちは、別に大きな理由なくペットを飼っていなかったので扱いに困ったものの、持ち前の庭でとても密度の濃い遊び時間を過ごしたことを思い出す。
「ジャンボのか。なんで今まで見つかんなかったんだろ」
「思い出してくれるまで隠れてたんじゃないの~」
 母さんは、時折こういう適当を言う。でも何度も草刈りして見つからなかったのに急に現れてきたのがなんか、不思議な説得力を生んでいる。
 ジャンボの存在は思い出したものの、前後が思い出せない。
 どうしてうちで保護することになったのか、結局どうなったのか。
 そこでふと、さっき見た赤い風船が脳裏を掠める。
 あぁ、そうだ。

 あの日、ヒーローショーで戦隊を間近で見てテンションの上がっていた俺は彼らが直接渡してくれる風船を欲しがった。
 お気に入りの赤をもらえて意気揚々だった俺は帰り道、曲がり角からのそっと現れた巨大な生き物にびっくりして、手を離してしまったのだった。
 その時に出会ったのが、ジャンボ。

「ジャンボねぇ、大声で泣くあんたに吠えるでもなく、心配そうな目でじっとしてたのよ」

 聞くとジャンボの飼い主は、俺と同じくらいの子供がいたらしく、ジャンボ自身子供慣れしていたらしい。
 おそらくその子供と当時の俺が重なっていたのだと思う。
 次の日、すぐにジャンボの飼い主は見つかった。
 鎌を新調したあそこでリードを買い、犬の散歩コースになりそうなところを母さんが歩いてみたところ、ジャンボをよく知る近所のおじさんがすぐに飼い主に知らせてくれたらしい。
 犬の散歩ネットワークがあることを、ここで知り、長らく忘れ、今思い出した。あれは今考えても華麗な解決だったように思う。

「あんた、一日だけだったのにそのボールでジャンボとすっごい遊んで、飼い主さんがうちに来るから挨拶するって時に疲れて寝てたのよ」

 あぁそうか、だから覚えてないんだ。

「起きたらジャンボがいないもんだからも~泣き喚いて。大変だったのよ。風船の後のお手数はこれです」
「そうですか、合点がいきました……」

 子供はなんでも覚えてる、なんて言われがちだが、ショックなことは忘れるようにできているらしい。幼い頃からすれば一大イベントのはずが、成人してしばらくするまで忘れてたんだものな。
 ジャンボは、うん、もう20年弱経っているはずだし、まぁ、うん。
 少し、ジャンボに会いたくなったが、悲しくなってしまうことが目に見えた。
 この庭を使っていたのは俺だけではなかったんだな。それを思い出せただけでも、収穫かもしれない。
 風船を失った子には悪いけど、少しだけいい気分に浸りながら、俺は草刈りを完了させた。

 次の日、予備日として取っておいた今日にやることがなくなった俺は近所を散歩していた。
 なんだか無性に犬に会いたくて、誰かしら散歩してないものかと物見遊山で土手を徘徊する成人男性に成り果ててしまった。
 目論見通り、時折犬が通る。種類はわからないが、黒と茶色の小さい犬、白くてふわふわした犬、柴犬。当たり前ながらそこにジャンボの姿はない。
「ま、そりゃそうですけど」
 少しばかり肩を落として帰路に就くため引き返すと、向こうに黄金色のシルエットが見えた。
 近づいてくる。大きい。近づいてくる。穏やかな目。近づいてくる。さらっとした毛。近づいて、近づいて、その犬を散歩させているのが中学の頃の同級生であると急に気付いた。
「うおっ、あ、久しぶり」
「え、ちょ、久しぶり」
 彼とは、そんなに交流がなかったものの、同じクラスではあった。地元ならありえないことではないけど、やっぱり同窓生と会えるとテンションが上がる。
 ひとしきり世間話をしつつ、足元の犬が気になっている。
「この子がどうかした?」
 流石にバレたから、素直に白状する。
 ゴールデンレトリバーに世話になったことがあること、それをちょうど昨日思い出したこと、犬に会いたくなったからここらを徘徊してたこと。
 彼はひとしきり笑った後に、おずおずと聞いてきた。
「ちなみになんだけど、その犬の名前って」
「ん、ジャンボっていうんだけど……」
 すると彼は、笑顔なのか泣きそうなのか、どちらとも取れる表情になった。
「ジャンボか、そっか、あのさ、こいつ、ボンって言うんだけど」
「ボン。デカそうな名前だね」
「ジャンボの息子だよ」
「ジャンボの、息子?」
 よもや聞き間違いではあるまいな。彼は今、この犬をジャンボの息子と……?
「そう。ジャンボは中学卒業の辺りで死んじゃって、でもその前に子供産んでたんだ」
「はぁ~……そうか……」
 ボンを見る。面影がある気がする。そしてずっと、俺のことを見ている。
「逃げたジャンボ保護してくれてたの君だったのか、やっとお礼言える。ありがとう」
 俺は、ボンから目が離せない。
「いやいや、俺もさ、楽しい時間だったからむしろ、お礼言いたいっていうか」
 ボンは、俺の視線から逃げない。
「触ってもいいよ、全然」
 言われてすかさず、ボンの頭を撫でる。気持ちよさそうに目を瞑って、顔をこっちに寄せてくる。
「ボン、ジャンボの子供かぁ」
「似てるでしょ」
「似てるなんてもんじゃないよ、すっごい似てる」
「なにそれ」
 気づけばもう数十分ここで立ち話をしていた。
「ごめんごめん、足止めしちゃって」
「全然、話せてよかった。じゃあまた」
 足を進めそうになった彼を、咄嗟に引き止める。
「ごめん、ボンの写真撮ってもいい?」
「もちろん。あ、ジャンボの写真いる?」
「いる!」
 自分でも信じられないほど前のめりな返事が出て、また笑う。

 彼と解散し、家へと向かう最中。
 写真を送るため連絡先を交換し「たまに飲もうよ」なんて口約束をして、俺の表情は、今どうなっているのだろう。
「今日もいい日だった」
 彼の言葉が、まさしく俺にも当てはまるのだった。

「ただいま」
「おかえり」
「母さん、すごいよ」

 すぐさまことのあらましと、彼から送ってもらったジャンボの写真を見せ、あの一瞬の思い出話がリビングを明るくした。

 あの赤い風船をきっかけに、この二日間で濃い時間を過ごした。ジャンボが俺の人生に関わる時は、決まってこうなのかもしれない。
 毎度草刈りを終わらせて都内の家に帰る時にはもう二度と、と思っていたのに。
「母さん、次から真夏でもいいや、雑草伸びたら呼んで」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?