最上の言葉を

 こんにちは、異羽です。

 今となっては昨日、27日まで新宿眼科画廊で僕が所属する獣の行進による公演『広すぎた檻』に出演しておりました。

 この作品は『作家と蛙』『広すぎた檻』の2篇で構成されており、それらがどう作用しあっているのかを考えてもらう公演です。個人的には。

 さて、僕が残したいのはそれについてではありません。ここからは僕がどれだけこの作品の終演を名残惜しく思っているかの文章が始まります。
 限りなく共演者向け、とはいえそんな姿を見てほしいとも思うのでそのほかの人類向けでもあります。

 後日、アーカイブ販売が始まるのでそれの足掛かりにもなればいいかな、とかがめついことを思ったりして。


 作品を「面白い」と思う時と「好きだ」と思う時は一概に同時とはいえません。
 観劇でも家に帰ってからふと「好きだったなぁ」と思うんだから出演してるとそれは殊更のことです。
 今回、『広すぎた檻』に「好き」を抱いたのはとても遅く、初日が明けてからでした。こんなこと公演中でも言えねぇんだ。
 空間と作品、役者と観客が合致してやっとそう感じることができました。そしてその瞬間、解像度がグッと上がったり。

 僕が演じた作家(蟾)/幕部(牛)は、ほぼ対極と言える人間でした。
 共演者には魅力的な人しかおらず、思えば僕はそれに甘えてばかりだったなぁと。曲がりなりにも劇団員なんですよ、僕。ただ結果的には良かったと、断言します。
 作家も幕部も人の行為/厚意/好意に甘えて成立していたんですもの。

 演出家安童有都の視界において、気付きというのが大きな意味を持ちます。
 何かに気付いた時生まれたものは何か、気付かない何かがあった時それが何によって阻まれていたのかを彼の稽古場ではどん底まで掘り下げます。
 だからこそ、キャラクターである作家/幕部は僕の中で只者ではない存在感を持つ。
 これにやられたんですよ。僕の中にあった「演じる意地」というのが「生きること」に捻じ曲げられた。
 その瞬間が、開演初日だったんです。

 呆れるぜ、終演して解散して家まで歩きながら、まだ僕はこの作品を見ている。地の底まで掘り進んだモグラが即座に地表に出戻りなんてできるわけあるかよ。
 ウジウジウジウジしているんですよ、僕は今。最近ヤクルト1000で健康睡眠生活を送っている僕ですが、今この瞬間をそれによる悪夢だと思っている。
 目を覚ましたら僕はまだ公演中の僕で、また舞台に立つのを待っている。と思いたがってる。

 ここまで書いてやっと「この文章の需要、あるのか?」と疑問に思う瞬間がやってきたのですが、まぁきっとこの感情を忘れて能天気に生きる僕がこの先にいるでしょうから備忘録として思う存分書こうと思います。

 社会で生きる上で、閉鎖的、利己的であることは不利に働くと僕は思っています。
 基本的に人間は共同体であって、足並みは揃ってた方が何かといい。
 ただ、作家も幕部もその前提に縛られない、ある種自由な人でした。
 そこに関わる蛙や刑務官、弁護士といった御仁たちはさぞ僕の演じた彼らに振り回されたことでしょう。自由とはそれ即ち、勝手でもあるのです。

 ここまでだらだら書いておいてなんですが、僕がこの作品から離れたくないのはとどのつまり受容してくれる人々を好きになりすぎたからでしょう。
 この世には良い人も悪い人もいるが、僕の周りにいてくれた人は確実に前者だった。
 須く人はそうあるべきと思った僕は最終日の朝、舞台面を転がりながら「私は森の賢者。人の思想を纏める者」などと宣っていましたが、まぁあながち目指すべきでないこともないなと。
 ヤバくとも、狂っていようとも、良い人であることはいい人の絶対条件なのかもしれません。

 寒空の冷気でスッと公演の熱が冷めたのを自覚した今でもこんな乱文を書いてしまう程度には僕の情緒は正常ではありません。困ったものだね。

 そろそろ閉じないと「あぁもう終わりたくないよ」だとか「明日が来るなんて嘘だよ」しか言えなくなってしまうので、無駄は語れど多くは語らずでいようと思います。

 役者である僕にとって最高の言葉とは何か。帰り道でそんなことを考えてしまいました。それはきっとまだ断定すべきではないのだと思いますが、ひとつだけ。

「私は、終わりたいのです。そしてもう、二度と黄泉がえりたくない。」

 『作家と蛙』の中で、蛙が作家に告げる言葉です。
 物語を終えることが、縋ることなく自分に戻ることが、何よりの誉れなのだと今回思いました。
 僕はまだまだ未熟ですから、もう少しだけこの言葉を咀嚼して、3日後ぐらいに飲み込もうと思います。
 いつかこの旨を、千秋楽で果たせますように。

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