【虹ヶ咲】高咲侑への謝罪会見の二次会【河村智之を信じろ】
YouTube所属の虹ヶ咲ラジオまとめちゃんねる氏
2022年7月17日夜、虹ヶ咲ラジオまとめちゃんねる氏による高咲侑への謝罪会見が開かれました。
動画時間57分20秒ごろからの、あまりにも美しい謝罪は必見です。
何かつらいことがあった時は、この謝罪を聞いて元気を出したいと思いますね^^
また、侑のことをエマくらい好きになった配信主と同様に、この配信を視聴してくださったみなさんが、侑に対して少しでも新たな視点が見つかったのであれば幸いです。
そして、この配信によって新しく気づけたこともたくさんあり、改めて『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』という作品の奥深さを知ることができました。
配信主はもちろん配信にコメントをしてくださったみなさん、本当にありがとうございます。
そこで今回は、新しい気づきになった配信内でのコメント等をもとに、私見を述べさせていただけたらと思います。
記事としては長くなってしまいましたが、前回の記事よりもざっくりとした一問一答のような形式になっているので、気になる見出しだけでも読んでいただければ幸いです。
補足
上記の謝罪会見以外にも、私の記事を取り上げてくださった配信やツイートがあり、そこでのコメントやツイートからの引用もしているので、あらかじめご了承ください。
また、今回は「なぜそう解釈したのかという根拠」を省略している部分があります。
その理由としては、頭の中には自分で納得している根拠があるのですが、それを客観的にも納得してもらうために、作中や辞書等から根拠を引用して記事を書くのは、とても大変で時間がかかってしまうためです。
もし疑問点や気になったところ等がある場合は、私のTwitterやnoteの記事にコメントをしていただければ、新しく記事を書こうと考えています。
コメントはもちろん、Twitterのいいねやnoteのスキもすごく励みになるので、記事を読んでいいなと思っていただけた方はぜひよろしくお願いします!
①:スクールアイドルに挑戦する歩夢について
少し複雑になるのですが、結論としては侑に応援されていなかった場合、歩夢はスクールアイドルに挑戦できていないと私は解釈しています。
まず、せつ菜のライブ時点では、歩夢は「スクールアイドルをやってみたい」という気持ちをまだ誰にも打ち明けていないため、侑だけではなく誰からも応援されていない状態と解釈できるでしょう。
このように解釈すれば、一応「挑戦には応援が必要不可欠」理論だけでも、歩夢はせつ菜のライブだけではスクールアイドルに挑戦する決意ができなかったと説明できます。
一方で、せつ菜のライブそのものが歩夢への応援になっているとも解釈できるでしょう。
私としてもこちらの解釈をしているのですが、ただしこの場合は、既に歩夢はせつ菜から応援されていることになります。
そうすると、「挑戦には応援が必要不可欠」理論を採用した場合、既に応援されている歩夢は、せつ菜と会うこと(=スクールアイドルへの応援)を諦めた侑を誘ってまでわざわざ侑からの応援を求める必要はなく、歩夢一人でもスクールアイドルを始められたはずです。
それではなぜ、歩夢は一人でスクールアイドルを始めずに侑を誘ったのでしょうか?
もちろん、「他の誰でもない侑に応援してもらいたかったから」という理由で侑を誘ったという解釈もできますし、実際のところ、歩夢にとって幼なじみで大切な存在である侑にこそ肯定・応援してもらいたかったという気持ちは少なからずあったと思います。
しかし私としては、歩夢が侑を誘ったのは「歩夢自身のためだけではなく侑のため」でもあり、歩夢がスクールアイドルに挑戦しようとしたのは、
歩夢自身のため(せつ菜のライブで確立)
侑のため(せつ菜と会うことを諦めた侑との会話で確立)
という2つの理由があると解釈しています。
※私がなぜこのように解釈しているかの根拠については省略します。
まず、せつ菜のライブや他のスクールアイドルの動画を見たことによって、歩夢は「歩夢自身のため」に自己表現をしているスクールアイドルに憧れたはずです。
しかし自分に素直になれず、せつ菜に会うと自分の気持ちが止まらなくなりそうで怖かったため、挑戦に一歩踏み出せずにいました。
そしてその後、歩夢はスクールアイドルへの応援を諦めた侑を見て、「侑のため」(=侑がスクールアイドルを応援できるよう)にスクールアイドルに挑戦しようと思ったはずです。
ここでもし、その侑に応援してもらえなかったのなら、「侑のため」という歩夢がスクールアイドルに挑戦する理由のひとつがなくなってしまいます。
つまりここまでをまとめると、歩夢は一人でスクールアイドルを始めようとせず、侑を誘って二人で始めようとしたことから、歩夢がスクールアイドルに挑戦しようとした理由は2つあり、
「歩夢自身のため」という理由だけでは(せつ菜のライブが応援になっていたと解釈しても)スクールアイドルへの挑戦に一歩踏み出せなかったが、
「侑のため」という理由も生まれて侑から肯定・応援があったからこそ安心してスクールアイドルへの挑戦に一歩踏み出せた
ということになります。
以上より、歩夢は「侑のためという理由」と「侑からの肯定・応援」があったからこそスクールアイドルに挑戦できたと考えているため、侑に応援されていなかった場合、歩夢はスクールアイドルに挑戦できていないと私は解釈しています。
※「挑戦には応援が必要不可欠」というのは、「応援があるから挑戦できる」ということであり、「応援があれば必ず挑戦をしなければいけない」というわけではありません。
②:侑の行動原理について
私としては、「侑はダブルスタンダードではない」という解釈をしているので、その根拠を説明します。
今まで侑は、音楽やスクールアイドルフェスティバルの開催、『NEO SKY, NEO MAP!』の演奏など、様々なやってみたいことに挑戦できていたのに、【2期12話】での作曲コンクールへの参加には挑戦できませんでした。
今まで挑戦できていたのに【2期12話】で突然挑戦できなくなったという、この「侑の変化の原因」として考えられるのは、
侑自身に変化があったから
侑以外に変化があったから
この2つのどちらかでしょう。
※侑自身と侑以外のどちらにも変化があった可能性もありますが、後述の通り私としては、侑自身に変化はなく侑以外に変化があったと解釈しています。
「侑自身に変化があったことが原因である」と仮定した場合では、侑の価値観が変わったということになり、
今までの侑は「やってみたいことに挑戦してきた」
【2期7話】での侑は栞子に「やってみたいことなら挑戦してみなよ」と言った
【2期12話】での侑は「やってみたいことに挑戦しなかった」
と、「挑戦」というひとつの事柄について、侑は過去の自分や他人に対して複数の価値観が出てきてしまい、一人の人間の中で矛盾が生じてしまいます。
こういった価値観が変化する矛盾のことを「成長」と呼べる場合もありますが、今回の場合は、そういった「成長」などを描写するために意図して用意された「意味のある矛盾」だと私は捉えることができませんでした。
そうすると、
『意味のない矛盾を抱えた人物が物語(作品)に存在している=その人物だけではなく、その人物が存在している物語(作品)も破綻している』
とも解釈できてしまう(今後の展開のために人物を歪めることで物語を成立させようとするのは作品として破綻しているのでは?と指摘されかねない)ので、この解釈を否定するために、「意味のない矛盾」に対して、
もともとそういう個性であり、そもそも矛盾ではなかったとするか、
成長を描写するために意図して用意された「意味のある矛盾」だった
というように、無理やり意味を持たせなければいけなくなります。
つまり、この「意味のない矛盾」に対して「もともと侑は個性としてひとつの事柄について複数の価値観がある人だ(=侑はダブスタである)」等ということにして無理やり意味を持たせ、侑個人の人格に矛盾を押し付ける(侑一人を悪者にする)ことで、物語と人物の整合性をとる解釈をするしかありません。
『虹ヶ咲の物語(作品)と侑に矛盾が生じているわけではなく、ただ侑がそういう人だっただけ』
と解釈するということはつまり、「侑は無責任である(ダブスタである)」という結論になるわけです。
対して、「侑以外に変化があったことが原因である」と仮定した場合では、侑の環境が変わったということになり、
今までは他者(歩夢)からの応援があったけど、
【2期12話】では他者(歩夢)からの応援がなかった
と、侑の周りの環境が変わったことを「挑戦には応援が必要不可欠」理論で説明でき、「侑は無責任ではない(ダブスタではない)」という結論になります。
※なぜ「挑戦には応援が必要不可欠」理論が「侑は無責任ではない(ダブスタではない)」ことに繋がるのかは、前回の記事を参考にしてください。
私としては、前者の意味のない矛盾に無理やり意味を持たせなければいけない時点で、その解釈は破綻している"詰み"の状態だと捉えてしまうため、後者の「侑は無責任ではない(ダブスタではない)」という解釈をしています。
また、侑のルール(行動原理)として何を設定するのかによっても、
「侑は無責任である(ダブスタである)」か、
「侑は無責任ではない(ダブスタではない)」
かの分岐点になると思います。
「侑はダブルスタンダードである」と仮定した場合は、ひとつの事柄について、侑には異なるルールが2つあることになり、わかりやすく設定するなら、
他人には「やってみたいことなら挑戦してみなよ」と言う
自分自身は「やってみたいことに挑戦(しても)しなくてもいい」
という2つのルールのもとで、侑は行動していることになります。
そうすると、「挑戦」というひとつの事柄について、他人と自分自身で異なるルールがあり、「侑は対外的にダブスタで無責任だ」と言えると思います。
対して、「侑はダブルスタンダードではない」と仮定した場合、「挑戦」というひとつの事柄について、
自他を問わず「挑戦には応援が必要不可欠」
という1つのルールのもとで、侑は行動していると設定すれば、
栞子にはやってみたい挑戦を促して、
侑自身はやってみたいことに挑戦しなかった(できなかった)
というのは、1つのルール(行動原理)をもとに導き出された"行動の結果"であると解釈できるのではないでしょうか。
そうすると、自他問わず同じルールで行動しており「侑はダブスタではなく筋が通って一貫している」と言えると思います。
ここまでをまとめると、侑が今まで挑戦できていたのに【2期12話】で突然挑戦できなくなった原因について、
侑自身に変化があったからだと解釈した場合、侑はダブルスタンダードで行動していることになり、「侑は無責任である」と結論付ける『侑を好きになれない配信』の世界線、
侑以外に変化があったからだと解釈した場合、侑はひとつのルールで行動していることになり、「侑は一貫している」と結論付ける『侑への謝罪会見配信』の世界線
になると言えるのではないでしょうか。
私としては前述の通り、前者の世界線について、意味のない矛盾に無理やり意味を持たせなければいけない時点で、その解釈は破綻している"詰み"の状態だと捉えてしまうため、後者の世界線である「侑は一貫している」という解釈をしています。
また、私としては、
「応援してくれる、みんながいるから。私たちは、ここにいる。」(≒挑戦には応援が必要不可欠)
が虹ヶ咲のテーマだと解釈しているため、前者の世界線にこの前提を加えてしまうと、
物語や人物は(無理やり)矛盾を生じさせない解釈ができるけど、
虹ヶ咲のテーマと(意味のない)矛盾が生じてしまう
と考えてしまいますが、虹ヶ咲のテーマをどう解釈するのかによっては、前者の世界線でテーマとも矛盾が生じない考え方ができるかもしれませんね。
個人的には、(もちろん限度はありますが)作品の解釈は受け手の自由であり、作り手が意図していない解釈をしてもいいと考えているので、様々な解釈があってもいいだろうと思っているのですが、以上より、私としては、
作中に、侑自身に変化があった描写がされていない
作中に、今まであった(歩夢からの)応援が【2期12話】ではなかったという、侑以外に変化があった描写がされている
1期2期を通した作中での描写から、侑は「挑戦には応援が必要不可欠」だと考えていると私は解釈している
という根拠から、侑は無責任ではなく一貫した行動をしていると解釈しています。
補足になりますが、配信主と私で、何をもって無責任だとするのかという「無責任だと判断する際に重視しているポイント」が少し違うように感じています。
おそらく、応援すると発言をした時点を基準として、
配信主は、「信念がないのに応援すると発言をするのは無責任だ」という、発言をするまでの過程(過去)を重視して無責任かどうかを判断していて、
私は、「守れなかったのに応援すると発言をしたのは無責任だ」という、発言をしたあとの結果(未来)を重視して無責任かどうかを判断している
のだろうなと推測します。
※この推測が間違っていたのであれば申し訳ありません。
私としては、「自分の頭の中だけではなく公に発言をした瞬間から初めて、自分の発言に責任を持ってその約束を守るべきだ」と考えており、その約束を守れなかった瞬間に初めて無責任だと判断します。
そのため極論ですが、発言に対して信念がなかったり、本心ではない嘘の発言だったとしても、その発言をした時点では無責任だとは判断しません。
つまり、頭の中では何を思っていても(何も思っていなくても)いいけれど、公に発言をしたならその発言には責任を持ち、あとでその約束を破る言動をした瞬間に無責任だと判断するということです。
もちろん、自分の発言に責任を持ってその約束を守り続けるためには、
なぜその発言をしたのかという信念(理由)があるべきで、
嘘をつかず本心で発言をするべき
だと私も考えているため、配信主も私も、過去か未来の一点だけで判断しているのではなく、あくまでも重視しているポイントが少し違うのかもしれないという程度の差だと思います。
この「無責任だと判断する際に重視しているポイント」によっても、侑への解釈が変わってきそうですね。
③:「挑戦には応援が必要不可欠」の適用範囲について
「挑戦には応援が必要不可欠」理論を採用するなら、少なくとも侑は「応援のあるなし」というルール(行動原理)で動いていると説明できます。
しかし私は、「侑だけのマイルールではなく、虹ヶ咲の世界そのものが『挑戦には応援が必要不可欠』というルールで動いている」(=脚本家はこのルールを大前提に脚本を書いている)と解釈しています。
なぜなら、虹ヶ咲が作品を通して伝えたい最重要テーマというのが、
『私とみんなの応援の循環があるから、私たちは不安を乗り超えて、自分を表現するための新しい挑戦ができる(=挑戦には応援が必要不可欠)』
だと私は思っているからです。
そのため、まだ検証はできていませんが、虹ヶ咲に登場する人物全員にも「挑戦には応援が必要不可欠」というルールを拡張できるだろうと考えています。
※この考え方は、作品をかなり俯瞰して見たメタ的な視点になるので、納得しがたいという方もいるかと思いますが、あくまで私見ということでご了承ください。
はんぺんやオフィーリアにも、このルールが適用できるのか考えてみるのも面白そうですね。
④:【2期8話】について
これは、【2期8話】で侑が舞台上でピアノを弾いたことに対して、
「侑は誰からも応援されていないのに新しい挑戦ができた(ピアノを弾けた)ので、『挑戦には応援が必要不可欠』理論に矛盾が生じているのでは?」
という指摘ですね。
まず、やってみたい挑戦を自分一人で思いつくのは問題ありません。
なぜなら、必ずしも「自分がやってみたい挑戦を思いつく、そのきっかけに誰かが関与している」必要はないからです。
応援が必要不可欠なのは、挑戦が確立した後の不安を乗り超える時です。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
一方で、たしかに【2期8話】では侑への応援の描写はありませんでした。
※歩夢たちのステージでのパフォーマンスが応援になっているという解釈もできますが、ここでは応援されていないものとして考えます。
しかし、上記台詞の後すぐに場面転換があるのですが、私としてはこの台詞の後に侑は肯定・応援されたと思っています。
なぜなら、虹ヶ咲は「挑戦には応援が必要不可欠」という世界観であり、もし応援がなかった場合、侑は舞台上でピアノを弾けていないと解釈しているからです。
では、なぜ脚本の田中仁は応援の描写をしなかったのでしょうか。
その理由は、
『視聴者に3rdライブの逆輸入をする演出を隠しておきたかったから』
というアニメ制作上の都合だと思っています。
侑への応援の描写をするためには、「先に侑の挑戦内容を提示しておくべき」なのが一般的な話の流れとなるわけで、 もし上記台詞のすぐ後に侑の挑戦内容を視聴者に知られてしまっていたら、 実際に舞台上で侑がピアノを弾く場面でのインパクトがなくなってしまうからです。
つまり、仁は応援の描写を、
しなかったのではなく、
できなかった
のだと私は解釈しています。
【2期11話】で、果林のメッセージ内容を意図的に隠した描写も、同様の理由からでしょう。
⑤:(ほぼ)完璧超人の愛について
登場人物の中でも愛は、あまり応援されなくてもなんとかなる、様々な能力に長けた「全てを持っている(ほぼ)完璧超人」として描写されていると私も解釈しています。
しかし、そんな愛も決して完全ではなく、ひとつだけ弱点があったというテーマを描くために、愛のジョーカーとして登場したのが【2期4話】の川本美里だったのでしょう。
その、愛の唯一と言ってもいい弱点とは、
『全てを持っている(ほぼ)完璧超人であること』
です。
学生時代に(ほぼ)全てを持てなかった美里は、自分ができなかったことをどんどん実現していく愛を見て複雑な心境になります。
美里は、妹的存在で家族のように思っている愛を心の底から応援できていない自分自身に対して不甲斐なさのようなものを抱いており、愛が手を差し伸べてくれる行為(≒他者への応援)すらも、かえって美里を苦しめることになっていたのでしょう。
「応援が最重要テーマ」として描かれている作品で、
「応援のアンチテーゼ」として美里という人物を登場させ、
だれの好感度も下げることなく30分でまとめきるというのは、思いついてもやろうとは思わないし、やろうと思っても簡単にできることではないので本当にすごいと思います。
また、【2期4話】の最後で美里がときめくことができたのは、愛だけではなく果林もいたからこそだと解釈しています。
※私がなぜこのように解釈しているかの根拠については省略します。
そのため、【2期4話】のライブが、
愛のソロライブではなく、
DiverDivaのユニットライブ
であったことに、しっかり意味が込められているのも素晴らしいと思っています。
⑥:愛への応援について
たしかに、愛が応援されている描写は比較的少ないと思いますが、愛が「応援を必要としない(完全な)完璧超人」として描かれているわけではないと解釈しています。
【1期4話】で愛は、「だれかに楽しんでもらうことが好きで、自分が楽しむことが好きで、そんな"楽しい"を分かち合えるスクールアイドル」を目指すために、老若男女だれでも"楽しい"を分かち合える「ダジャレ」というツールを自己表現の手段として選択します。
そして、【1期4話】のラストでダジャレの連発をするわけですが、
他のスクールアイドルにとって「ダジャレ」はスクールアイドルの特訓にならないけど、
愛にとって「ダジャレ」はスクールアイドルの特訓になる
というダジャレの連発に対して、侑だけが腹を抱えて笑っています。
侑のこの行為を、愛への肯定・応援と言わずして何を肯定・応援と言えるのか、というくらいに笑っています。
笑いのレベルが「赤ちゃん」の侑が笑っているということは、愛が「老若男女だれでも」楽しんでもらうためにダジャレを選択したことが間違いではなかったということの裏付けでもありますね。
個人的には、ダジャレという愛の中核となる具体的な自己表現に対して、侑が言葉だけではなく行動でも肯定・応援しているこの描写は、作中でも屈指の「肯定・応援ポイント」だと思っています。
そのため、私としては、
「愛はあんまり応援されなくてもなんとかなっちゃう」とはあまり思っておらず、
このシーンの侑は「夢を追いかけている人を"応援"している」描写である
と解釈しています。
⑦:【2期12話】について
矛盾は生じていないと解釈したうえで、最終的に侑を好きと思えるかは「好みの問題」なので議論の余地はなく、私からこちらの記事以上にお伝えできることはありません。
ただし、物語や登場人物の整合性がとれているかという「(意味のない)矛盾点の指摘」なのであれば、それは意味のない矛盾なのか、意味のある矛盾なのかという議論の余地はあると思います。
私としては、もし侑を「応援待ち」にしなかった場合、
意味のない矛盾が生じて、今まで積み上げてきた物語と人物描写が崩壊する、いわゆる"詰み"の状態か、
【2期12話】で描きたいテーマを根本的に変更しなければならない状態
になると考えています。
【2期12話】は、虹ヶ咲という作品全体を通して伝えたいテーマでもあったと考えているので、侑を「応援待ち」にしたのは、物語と登場人物全員に意味のない矛盾を生じさせずに作品全体のテーマを伝える最善の一手だと解釈しています。
※私がなぜこのように解釈しているかの根拠については省略します。
仁を妄信できる方は、ぜひ自分の中で納得できる解釈を捻り出してみてください。
⑧:侑の葛藤について
※上記コメントについて、せつ菜の部分の意図を把握できませんでした。申し訳ありません。
おそらく、このコメントをされた方は、
『「侑の応援」がマイナスに作用することがなく、トントン拍子にうまくいく(=ゴリ押し)ため、応援について葛藤してそうにない侑という人物が薄く見えてしまう』
と解釈しているのだと推測します。
※この推測が間違っていたのであれば申し訳ありません。
もちろんこの解釈が間違いだとは思わないのですが、私としては、
作中に「侑の応援」がうまくいかないシーンがあり、
これが原因で問題が起こって侑が悩んでいる描写がある
と解釈しています。
※私がなぜこのように解釈しているかの根拠については省略します。
「応援」を是とする作品なので、最終的にはこのシーンも「侑の応援」は間違っていなかったという展開になるのですが、侑が葛藤している描写としては十分だと思っています。
※ただしこの一連のシーンは、基本的に「侑ではない人物の視点」で物語が展開されているので、少し複雑かもしれません。
仁を狂信できる方は、ぜひ自分の中で納得できる解釈を捻り出してみてください。
⑨:侑の夢について
このコメントは、こちらの記事の①-2「【2期12話】の回想シーンは、侑と歩夢のどちらも既にやってみたいことが確立された後のシーンである」という部分に対する指摘ですね。
おそらく、このコメントをされた方は、
『【1期11話】の時点で侑の夢(やりたいこと)が確立されたはずなのに、【2期3話】や【2期8話】、【2期12話】でも侑の夢が確立されたような描写があるため、ごちゃごちゃしているように感じる』
と解釈しているのだと推測します。
※この推測が間違っていたのであれば申し訳ありません。
私としては、侑はそれぞれの時点で同じ夢を確立しているわけではなく、
【1期11話】の時点では、「音楽」という夢を確立した
【2期3話】の時点では、「自分の好きな音楽を作曲できる作曲家」という夢を確立した
【2期8話】の時点では、「自分の好きな音楽を作曲して(舞台上で)演奏できる作曲家兼ピアニスト」という夢を確立した
【2期12話】の時点では、自分の好きな音楽だけではなく作曲コンクールで優勝できる音楽も作曲して(舞台上で)演奏できる、「オンリーワンだけではなくナンバーワンも目指す作曲家兼ピアニスト」という夢を確立した
というように、「夢を見つけて挑戦したことで見つかったまた新たな夢」を、それぞれの時点で確立しているのだと解釈しています。
夢(やってみたいこと)というのは、一番初めに抱いたものだけが正しくそれ以外は認められないというわけではなく、夢に挑戦することでより具体的な(解像度が上がった)夢に気づけたり、お互いに影響しあって変化しながら広がっていくものであり、「夢を見つけて挑戦したことで見つかったまた新たな夢」を確立しているのは侑だけではありません。
オンリーワンを描いてきた虹ヶ咲という作品で、「最後に同好会から本気でナンバーワンを目指す人物が現れる」というのも多様性のひとつであり、同時にオンリーワンでもあるというのが素晴らしいですね。
⑩:【2期5話】について
「【2期5話】に納得できない」という同じ内容のコメントでも、どの部分に対してどのくらい納得できていないのかは、それぞれ異なると思います。
そのため申し訳ないのですが、みなさんが【2期5話】のどの部分に対してどのくらい納得できていないのか、私はあまり把握できていません。
たしかに私も、こちらの記事で上記のように書いたのですが、あくまでも「あまり私の好みではない」というだけであり、作品全体を通して物語や登場人物に(意味のない)矛盾は全く生じていないと解釈しています。
そして、なぜあまり好みではないのかという理由についても、「なんか嫌だ」ではなく自分なりに根拠が明確にあり言語化できています。
※私がなぜこのように解釈しているかの根拠については省略します。
また、【2期5話】に納得できない理由が、
矛盾がないと解釈したうえでの「好みの問題」という場合は、議論の余地はない、
「物語や登場人物の(意味のない)矛盾点」という場合は、議論の余地がある
と考えているですが、どちらの場合であっても新しい視点や価値観を知りたいので、ぜひ理由を聞かせていただきたいです!
ちなみに私は、歩夢やしずくのことを百合だとは解釈していません。
とはいえ、歩夢の侑に対する感情は「友情」なのか「恋愛感情」なのかをはっきりさせず、どちらの感情なのかを歩夢自身も整理しきれていない状態とも解釈できる描写はとても素晴らしいと思っています。
しずくについては、もちろん百合だと解釈することが間違いだとは思わないのですが、なぜしずくを百合だと思えるのか(百合の妄想をするのが好きだと思えるのか)、私はあまりピンときていないというのが正直なところです。
そのため、この辺りも含めて【2期5話】について語り合える機会があればいいなと考えているので、みなさんの、
『歩夢を好きになれない配信』や、
『しずくを好きになれない配信』
等を心待ちにしております!
まとめ
このようにコメントをしていただき嬉しい限りです。
今回も、配信主やコメントをしてくださった方の考えや疑問点を知れたからこそ、この記事を書くことができました。
本当にありがとうございます!
冒頭でもお伝えしましたが、もし疑問点や気になったところ等がある場合は、私のTwitterやnoteの記事にコメントをしていただければ幸いです。
虹ヶ咲についてみなさんと語り合える日を楽しみにしていますね。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!
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