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タイム・イズ・ランニング・アウト 〜NRIPS(エヌリプス)特務隊の事件ファイル〜

第一話 リンク


第二話 リンク



第三話

File.0     パラダイム・シフト   (1) 

 俺の母は狂っていた。いや、狂ったしまったと言った方が正確か。キッカケは俺の父さん——つまり母にとっての夫——の突然の死だった。

 不幸な、そして悲惨な事故だった。公共交通機関のアクシデントとしては近年稀に見る大惨事の一つとして数えられる、2009年のS県K市におけるNR列車脱線事故。犠牲者は乗員乗客合わせて百二十二名。父さんはその内の一人として、犠牲者リストに名を連ねる事となってしまった。俺がまだ九歳の時だった。どれだけの不運が重なればこんな事が起きるというのか?と、神に恨み節を吐き続けたこともあった。


 事故を境にして、明確に母の様子が変わった。何やら怪しい宗教めいた儀式に、四六時中のめり込むようになったのだ。

 (母さん、何か変になっちゃった。。)

 幼い時分の俺でさえ、そう思わざるを得ない程の変わり様だった。


 公務員だった父さんの死は、労災保険と鉄道会社からの賠償金という望まぬ形での多額のカネを母にもたらした。それがまずかったのかもしれない。それまでのアパート暮らしから、事故後にと或る一軒家へ引っ越したのを機としてからというもの、我が家において母の怪しげな念仏を読み上げる声が途絶えた日など一日たりとて無かった。


 家での食事(主に朝食と夕食)の前には、毎度必ず、約五分間に渡る母の読経タイムがいつの間にやら習慣となっていた。そのルーティンが始まった最初の一、二年は、
 (これを唱え続けていれば、いつか父さんが「ただいま〜!」とお家にヒョッコリと帰って来てくれるのかも。)
 と、幼心に——母から直接そんな事を言われた訳では無かったけれど——信じていたのだが。


 その純粋な思いがコナゴナに砕け散ったのは、俺が中学一年のゴールデンウィーク。進学によるカテゴリーチェンジによってもたらされる、ある意味真っさらな環境。新しく友達が出来たので、その友人たちを一軒家の我が家へと招待した時のことだった。


「ピンポーン」
 何とも間が悪いことに、彼らが家のインターホンを鳴らしたその時分。母は持ち手の先に小さな鈴がたくさん付いている神楽鈴(という名前らしい)をシャンシャンと鳴らしながら、いつにも増してパワフルな読経を上げている最中だったのだ。


「おじゃま、、、しま、、す、」
 彼らの語尾のトーンの低さから、来てはいけない場所に手違いで来てしまった、感がありありと滲み出ていた。その場の気まずさ、雰囲気の悪さ。こんな場所からは直ぐにでも立ち去ってしまいたい、という招かれた側が発する強い思い。。

 [ふざけろよ、お前。このヤロー!]

 複数人係りで以って、そのような負の感情の一斉集中砲火浴びせられるという経験は、自分の人生に於いてはあの時が初めてのことだった。


 そんな重苦しい雰囲気の中、自分の部屋で何かのTVゲームで遊んだのだと記憶しているのだが正直あまり覚えていない。ただそのゲームの最中に、客人へのもてなしとしてポテチと葡萄ジュースを母が持って来た時の事。これが強烈なインパクトとして、俺を含めたその場の当事者の記憶に刻まれる事になった。


 母が友人達へのありきたりな挨拶をする直前まで、やはりというべきか、例の「食事前の読経」をブツブツと念じながら俺の部屋に入ってきたからだ。

「初めまして、隼人と仲良くよろしくね。どうぞごゆっくり。」

 そう言って部屋のテーブル上に飲食物を置いた母は、またしても怪しげな呪文を唱えながら俺の部屋から退出していった。


「、、、、、きっつ〜。」
「お前の家、何つーか、ヤバいな。」
「ちょっと強烈すぎて、、マジ引くわー。」
 こう言い残して、そそくさと我が家から立ち去っていった友人たち。いや、元友人たち、、、、、


 そりゃそうだ。逆の立場から考えてみて、そんな状況で「ごゆっくり」なんて出来る訳が無い。何か意味不明な、非常識な教義的なモノを洗脳されてしまうのでは?今出されたこの  紫色をした液体  グレープジュースには、何か身体に良からぬモノでも混ぜられているのでは?と、自らの身の危険を案じて彼らが取った 脱出行為  エスケープは至極当然のものだった。


 この一件から、薄っすらとは感じていた、
 (ああ、ウチってやっぱりマトモじゃないんだな。。。)
 ということを、ハッキリと自認するに至った。


         ☆


 おかげでここからの俺の中学校生活はロクな思い出が無い。そういった「悪い噂」というものは、この時分の多感な子供達にとってはまさに「命取り」とも言えるものであり、多分に漏れず俺もその例外ではなかった。陰口・シカトといった嫌がらせ行為を受けるようになってしまったから。


 (友達が作れない上に学校の成績まで落ちこぼれてしまうと、イジメが更にエスカレートしてしまうかも、、、)

 そんな恐怖心から、勉強では「中の上」の成績はキープ出来るように必死に努力した。

 (母と同じ食卓に着いて晩メシなんか喰いたくない!)

 という理由から、放課後は塾に通いたいという旨を彼女、、に伝え、快諾して貰えた。ラッキーだった。週三回は不可抗力として「夕食前のお祈り」から解放されるようになった。塾のお陰もあってか、成績の方も次第に安定するようになっていった。運動神経に関しては、幸いな事に人並み程度には備わっていたようで、体育の時間に苦を感じる事はそれ程無かった。


 とはいえ、学校には居場所は無い。かといって塾以外の日に家に帰れば、お約束の「読経リフレイン」。完全に嫌気が差していた俺にとって、唯一の楽しみと言えたのが自室のパソコンで様々なアーティストの楽曲をネットサーフィンで聴き巡ること。ヘッドフォンを耳に当て、「念仏」が聞こえない位までボリュームを上げ、洋楽・邦楽を問わずロック系音楽を聴きまくって現実を逃避する日々。


 お陰で中学生の癖に、やたらと古今東西のバンド名に詳しいロックオタクのいちリスナーが誕生してしまった。自分の内にある、沸々としたフラストレーションを解放する為なのか、やはりディストーションの効いた激しいロック調の楽曲が当時の俺にとっては非常に心地良かった。ギターを演奏してみようとは、全く以って思わなかったけれど。


 そうやって中学時代の俺は、いわゆる陰キャの部類に属するタイプの人間として、どうにかその悶々とした日々をやり過ごしていったのだった。


 さて中学一年春のGW事件以来というもの、俺の心の中で母に対する怒りの感情が占める割合は当然ながら増大していくばかりだった。


 だがその一方で、腑に落ちない「謎」や「何故?」という思いも、同時に自分の胸の内に募っていくのも感じていた。


 それは、
 (何故彼女、、は、彼女、、自身がやっている事を俺に強制しないのだろうか?)
 という、素朴な疑問だった。


         ☆


 第四話 リンク



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