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べらぼう1話感想

べらぼうの1話を見たので感想を書く。


〇プロローグ~明和の大火~

 今回の大河は開始早々大火により焼き尽くされる吉原という物理的なホットスタートである。
 火の見櫓の上で半鐘を叩く重三郎だが半鐘を叩くにも打鍾信号という状況に応じた叩き方というものがあり、5回連打は現在でも使われている近火信号という緊急状態を示す。
ナレーションでも言われていたこの明和の大火は江戸三大大火の一つと言われる火事であり、犯人の僧侶は火事の起きた同月内に長谷川宣雄(長谷川宣以の父親)の配下に捕縛され、三か月後に火あぶりの刑に処されている。

〇九郎助稲荷

 今回のナレーションを務めるのは吉原にあった稲荷神社の九郎助稲荷だが、現代デバイスを使いこなしているあたり青天を衝けの徳川家康と同じタイプ。
 お歯黒ドブの紹介で「私が沈んだ」と言っており、実際九郎助稲荷が祭られている稲荷神社は吉原の隅にありお歯黒ドブに隣接しているため、
 火事から逃げる際に持ち運びが難しいのと消失しないために稲荷の像をドブに沈めたのだろうが、ひょっとしたら「沈んだ」はダブルミーニングで彼女は過去に足抜けか何かを行い失敗して沈められた遊女なのかもしれない。

〇重三郎と花魁たち

 大火から約一年半後、復興した吉原で火事の時に拾った少年唐丸と仕事に励む重三郎。
茶屋(今でいう無料案内所)と貸本をしながら生活しているが貸本の代金が蕎麦1杯より安いのを見ると本どころか紙からして非常に高価であった去年とは時代の流れを感じさせる。
 花の井から包みを預かり浄念河岸の朝顔の所に届ける重三郎。
法律を守らない輩が出てくると守ってる輩がその分煽りを喰らうのはいつの世も変わらないというのはよくある話である。違法に置かれた岡場所に客を取られた煽りを底辺の河岸見世女郎が直撃し、日々の食事にも事欠いて包みの中の弁当に先を争って群がる女郎達の姿に吉原の現状が伺える。
 病床にある朝顔に薬と弁当を渡す重三郎、傍に近寄らせようとしない朝顔は恐らく労咳なのだろう。
 ちなみにイデオンのプラモでおなじみの駿河屋は戦後静岡県で開業された古書店が起源なので今回のこれとは無関係である。

〇長谷川宣以

 初めての吉原に来てやたらイキり散らかしている若侍とその取り巻き。
天下御免の吉原で聞かれてもいない身分をひけらかしルールも守れないという野暮の極みみたいな事をやっており、案の定駿河屋と重三郎にカモにされているがこれが後の鬼平こと長谷川宣以である。父親の長谷川宜雄が明和大火の後京都町奉行となり宣以もそれに付いて京にいたのだが、父の死を機に江戸へ戻ってきたらしい。
 あまり馴染みがない時代だからこそ1話から鬼平という馴染みのあるキャラを出すのは見る側の理解のとっかかりとして良いと思うし、彼が本格的に歴史に顔を出すのは寛政の改革の頃なので逆に色々な場面で便利に使い回す事が出来そうである。
 なお宣以は1745年生まれなのでこの時28で2年前に長男の宣義が誕生している。28の子持ちが初風俗でイキるのかぁ…と思ってはいけない。
 そんな華やかな表側の対比であるかのように暗闇の中に浮かび上がる河岸見世の女郎達と重三郎から貰った弁当をちどりにあげる朝顔。
花の井が金でなくわざわざ弁当を送ったのは朝顔の性格上金を送っても周りの女郎達を食べさせるために使ってしまうからなのかもしれない。

〇朝顔の死

 翌日放火未遂の現行犯で連行されていく遊女。
実際こういう遊女による付け火は少なくなかったそうで、1768(明和5)年から1866(慶応2)年までのおよそ100年間でも廓が全焼した記録がある大火が18回起きており、
内10回は遊女による放火とされている。
 当時の放火は江戸の町においては既遂未遂に関わらず死罪であったが、この放火を行った遊女10人全員が三宅島・八丈島などへの遠島であり死罪となった記録は残されていない。
放火は大罪とはいえ動機が劣悪な環境に耐えかねてのものだったため奉行所も温情が入ったのかもしれない。
 重三郎はちどりから空の弁当箱を受け取り安堵するがちどりは朝顔から弁当を貰った事を告白し、自分が食っちまったから…と何度も呟く。
病で衰えた朝顔が食事を取らない事が何を意味するか薄々分かっていたかもしれないが、それでも食べてしまったちどりの姿が哀しい。
 ちどりの言葉から朝顔の死を予感した重三郎は死んだ女郎が運ばれる投げ込み寺へと走り、そこで見たのは衣服を剥ぎ取られ、他の死んだ遊女とまとめて地べたに置かれている朝顔の姿だった。
 死んだ遊女は親が江戸にいるケースを除けば無縁仏と同じ扱いになり身ぐるみはがされて一緒くたに埋められるという記述はあるがこうやって実際に映像で見ると中々にショッキングな絵面である。
 遊女の遺体なんて梅毒と栄養失調でボロボロでこんな肉付きの良い綺麗な肌じゃないだろうというツッコミもあるかもしれないが、描写的には木っ端遊女は死んだら身ぐるみ剥がされて投げ込み寺に捨てられるということが分かればそれでいいので、流石にそこまで言うのは無粋というものだろう。
 朝顔の変わり果てた姿を見て子供の頃朝顔と始めて会った時のことを思い出す重三郎だがそれにしても顔からシモのものが出る呪いをかけたがる男である。
最終回までにどれだけレパートリーが増えるだろうか。

〇吉原増客に向けて~田沼意次との出会い

 駿河屋で行われている大店衆達の会合に乗り込み底辺遊女救済のための炊き出しを頼む重三郎だが大店衆は取り合う気もない上に駿河屋に叩き出される。
 ここの弁当の仕出し先として使われていた百川という名前だが、江戸から明治初期にかけて営業しており、ペリー来航の際に料理を作ってもてなしたと言われている懐石料理屋「百川楼」の事だろう。
 かぼちゃが使われていたがかぼちゃ自体は戦国時代に伝来していてこの時代には甘味のある野菜として既に一般的な食材。
ただし「冬至にかぼちゃ」というのは幕末から明治にかけての風習らしい。
 このあたりは重三郎の若さがクローズアップされるシーンだが、ただでさえこの時代他の仕事にしたところで社会保険なんて存在しないから何もかも自己責任で失業したり怪我や病気したらアウトだし、そもそも吉原なんて普通の理屈がまかり通る世界じゃないからその元締めに倫理観なんて求める方がおかしいというのも間違っちゃいない。
 駿河屋に階段落としされたのは重三郎がこれ以上ヒートアップしたらいいかげん殴る蹴るだけでは収まらないレベルになりそうなのでその前に終わらせたのかもしれない。
転がり落ちてきた重三郎にふじが驚きもしなかったあたり案外駿河屋ではよくある事なのかもしれない。
 上に言ってもらちが明かないのでとりあえず他所へ流れている客を戻すために吉原以外で違法営業している岡場所の摘発を頼みに奉行所に行ったがけんもほろろに追い返される重三郎。
ひょんなことから知り合った謎の男のアドバイスにより老中田沼意次の所に行く事を決める。
 屋敷前で出会った和泉屋の供という形で無理矢理意次の出る場に同席する重三郎だが、和泉屋が意次に渡した賄賂を「肥し」と表現しているのは初めて見た気がする。
 意次に対し警動の陳情を行う重三郎だが、一応大きな女郎屋の若い衆として子供の頃から育てられてるからそれなりの場でも通じる礼儀作法仕込まれてる感じが面白い。
 意次は各街道の維持による経済活動の活発化に岡場所や賭場は必要であり、他所に客を取られている状態なのに上層部が利益の大半持っていくだけで岡場所との競争に勝つ努力をしていなかったら廃れるだけと言う。
このあたり幕府のために必要であれば違法風俗だろうが賭場だろうが容認するという彼のスタンスが見受けられるシーンでもある。
これで岡場所摘発の陳情をスルーされたあたり何やら丸め込まれた感もあるがそれはそれとして感銘を受けた重三郎は礼を言い吉原へと帰っていくが、
こういう場所で「ありがた山の寒がらす」は聞く側からしたら真面目にお礼を言ってるのかそれとも煽ってるのかちょっと分かりかねるところ。
後半すっかり蚊帳の外で下手をしたら他人には聞かれたくない大事な商談のチャンスを潰された可能性まであった和泉屋はまったくもって災難だったので後日駿河屋にクレームを入れてもいい。
 女中たらしこんでるかと思いきや弁当をこっそり流してやるといういい人役で意知もちょっと登場。
序盤でこういうポジションの人間は大抵中盤あたりで理想と現実とのギャップに苦しむ話が来そうだがさてどうなるだろう。
 意気揚々と吉原に帰って来た重三郎だが警動の陳情の件はとっくにバレており、Gメン75だかアベンジャーズだかよろしく終結した大店衆達にフクロにされた挙句逆さにした風呂桶の中に閉じ込められる。
これは桶伏と呼ばれる初期の吉原における代金未払いの客に対する制裁行為であり、元禄頃にはもう行われなくなった行為らしい。
 閉じ込められはしたものの見張りも置いていないので明り取りの窓から食料の差し入れは可能だし、こんなのでも一応身内だから簀巻きにして川に放り込まれずに済まされている感がある。
 とりあえず考える時間だけはたっぷりあった重三郎は閉じ込められている間に何やら思いついたようで次回へと続く。
 それにしてもこの一日だけで階段から落とされフクロにされて手当もされず数日放置されてもピンピンしているのだから頑丈な人間である。

〇感想

 とりあえず1話を見ての感想だが、基本的な展開は奇をてらわない良く言えば堅実、悪く言えば定番の内容になる。
去年と比べると衝撃的なシーンは負けず劣らずだが次の話へ視聴者を引き込ませるためのフックが若干弱い印象があるがこれは単純に去年が強すぎるだけだろう。
 その上で吉原を描くにあたっては経験の薄いボンボンから搾り取ろうとしたり底辺の女郎の末路を描いたりと美しいだけの物は作らないという覚悟は見て取れる。
ただしBGMに関してはかなり真面目にやっていて印象が薄いというかこれに関しても去年がやりたい放題過ぎた反動かもしれない。
 作品のイメージとして光る君が少女漫画だったのに対し、べらぼうはマガジンとかゴラクの成り上がり系の漫画みたいな感じだろうか。
ともあれ話は始まったばかりで作品の両輪となる幕府内の政治状況が描かれるのもこれからであり、次回が楽しみである。

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