<弱さの力、あるいは速度を落とすということ>(これは2002年か、2003年に書かれたものです)

<弱さの力、あるいは速度を落とすということ>

 去年の暮れにひどい風邪をひいて二日ばかり絶食した。下痢がひどく、あっという間に脱水状態になって、体がどんどん干からびていくのがわかり、これはやばいと水分を補給しようとするのだが、胃腸がまるでやけどしたかのように爛(ただ)れて、水すら受けつけない状態だった。

 はじめて意識する体験だったのだが、ただの水やスポーツドリンクすら、まるで煮えたぎった重湯のように感じた。なにか濃度が濃すぎて、重すぎて飲み込むことができないのだ。

 むろん水分ですらそうなのだから、とても固形物など、口に入れることを想像するだけで冷や汗が出てくる。

 私が青い顔でうなっている前で、家族は非情にもいつものようになにげなく肉や野菜を口に運んでいるのだが、そうやって普通になんでも飲み食いできることの凄さというものをつくづくと感じた。

 しかも健康だったときには、ウイスキーなどをロックで何杯もやって、煙草も平気でスパスパしていたりしていたのだ。これを神を恐れぬ仕業といわずして、なんといおう。もうこれからはそんな胃腸を拷問にかけるような生活習慣はきっぱりとやめます。だからせめてスポーツドリンクの水割りだけでも、受けつけるように体にいってやってください。そう祈らずにはいられなかった。

 翌日にはどうにか水分だけはなんとか喉を通るようになった。オレンジジュースの水割りに、塩をひとつまみ入れた即席のアイソトニック飲料のなんと旨かったことよ。そして二日間の絶食の後の炊き立てのお粥と梅干しのなんという滋味。全身の細胞が一匙(ひとさじ)一匙ごとに、むくむくと生き返ってくるのがわかるようだった。

 体が弱ったときに見えてくる世界というものがある。

 若くて健康で、五体満足で肩で風を切って街を闊歩(かっぽ)している人間の世界と、車椅子で移動したり、年老いてゆっくりと足を運ばなければならない人たちの世界とは、たぶん同じ手触りのものではないだろう。

 『僕が医者を辞めた理由』をお書きになった永井明さんが、ちょっとタイトルを忘れてしまったが、老人という状態を体験するべく、体のあちこちに二十キロ近いおもりをつけて、しかもわざわざおばあさんに変装して、街を歩いてみた経験を本にしていた。それはやはりまったく体験してみないとわからない新鮮なものだったようだ。

 想像力というのも、やはり限界があって、年を取るということも、実際にそうやって擬似的に体験してみないとわからないことだらけのようだ。電車やバスの中で子供や若者が平気で優先席に座っていたりするが、彼らがそう鈍感な人種というわけではないと思う。

 道徳の時間でそういう若者たちにしっかりと社会のルールを教え込ませなければいけない、というような議論もあるが、彼らも子供の頃からたぶん何回となく「お年寄りや体の不自由な人に席を譲りましょう」という言葉を聞いてきたのだと思う。

 よくある交通ル-ルの標語などと同じように、それはくり返されればされるだけ、ますます人の感覚はそれを無視するようになる。それらは人の想像力を喚起するスイッチに触れることがないからだ。

 年を取った状態というのが、たぶん彼らの想像の外にあるのだろう。まず学校などで、永井明氏がやったような疑似体験をさせてみるといい。そうやってはじめて見えてくる世界がある。大人たちがそういう手間暇をおしみ、力でねじ伏せて「ルールを守れ」と脅しつけるより、たぶん実際的な効果があるのではないだろうか。

 バスといえば先日こんな体験をした。

 昼下がりの時間帯で、立つ人がでるほどではなかったが、前の方の座席はほとんど埋まっているといった感じの混み方だった。あるバス停について、そこにたぶん八十歳はとうに越えていると思われる、絵に描いたようなヨボヨボのおじいさんが、今にも転げそうになりながらやっとこさ乗ってきた。すると前の方に座っていた中年以降の女性たちが一斉に腰を上げて、そのおじいさんに席を譲ろうとした。その一群にはなんとそのおじいさんと同年くらいのおばあさんもいて、それには思わず吹き出しそうになってしまった。

 私も含めて何人かの四十台、五十台の中年男性も何人か乗っていたのだが、まったくびくとも動こうともしなかった。私自身譲ろうかなというぼんやりした意識はあったが、その思いとは裏腹に、腰の方はどっしりとイスに張りついたままだったのだ。そういう男たちをさしおいて、女性たちはというと、頭で考える前にもう体が動いているという感じだった。

 その光景を見てつくづく感じたのは、男はダメだなあということだった。特に四十台、五十台の男たちというのは、もうどうしようもないのではないか。社会的にはもっとも権力の座にいるだろう者たちだ。職場でもおそらく、人をアゴで使う立場にいるような世代だ。そういう男たちが、ほとんどなんの反応も見せなかったのに対し、おばさん以上の年齢の女性たちがみせた素早い動きには、思わずこちらをはっとさせるものがあった。

 体力や気力からいえば、まだまだこの男性陣たちの方が充実しているだろう。しかし内面ではどうあれ、体はみごとに反応していなかった。

 それにくらべて女性陣たちのみせた素早い体の反応は、普段からそうやって、弱い者や困った者たちに対してなにかあったら手を貸そうと、いつも心体のセンサーを作動させておかなければできないような動きだったと思う。

 たぶんそういう女性方というのは、それまでの半生の中で弱者の立場というものを経験して来られた人たちなのではないかと思う。

 妊婦のときの体験や、体力的に男性に脅かされてきた体験、年を取ってきて体力が落ちてきた体験などの、社会的な弱者としての経験が豊富に蓄積しているのだろう。日々そういう弱者の視点から、この世界を見てきた人たちなのだろう。それで助けを必要とする者に対し、とっさに武道家のような見事な体の動きが出来るようになったのだろう。

 弱者を体験したものしか、弱者の立場はわからない。強者には、そういう世界があるということすら、しばしば理解できないことがある。その反面、弱者の立場からは強者の世界もとてもよく見える。その会社がどんな会社であるか知りたければ、その会社で清掃業務に従事している人に聞いてみるのが一番だろう。

 「弱さの力」とも呼ぶべきものがあると思う。でもそれは、とても小さなハミングのような歌なので、人間世界の騒音の中ではきれぎれにしか耳にすることは出来ない。それをしっかりと聴きとるためには、いつも耳をとぎ澄ませていなければならない。

 弱さの力とはきっと「子供」の力だ。その人自身の内に住んでいる永遠の「子供」の持っている力。感受性と可能性と成長する力の固まりのような。

 それは人を生かし続けるエネルギーの源でもある。それが枯渇してしまうと人は「うつ」になってしまう。うつとはそういう生き生きとした「子供」のエネルギーと切り離されてしまった状態なのだ。

 しかし、そのエネルギーの固まりとしての「子供」は、本来とても弱々しく、とても傷つけられやすい。生きていく過程で、私たちはいやおうもなくその「子供」を守るために、鎧(よろい)を着ていくことを学んでいく。

 だが、そういう鎧はやがて重くなりすぎて、守っていた「子供」自身を圧迫していってしまう。強さの力に支配されて、私たちは私たち自身の「子供」と切り離されてしまうことがある。

 そうしたとき私たちはうつになり、また子供を失った哀しみから、今度は他の人たちの持っている「子供」に嫉妬し、それを圧迫し、窒息させることに喜びを見いだすようになる。ナチズムの思想の背後には、そうして「傷つけられた子供」の叫びがかくされている。

 傷つけられた者たちは、傷つけられまいとして、強さの力を手に入れようとする。そうして強くなった者たちが、さらに争いながら人々を傷つける。そういう歴史がくり返されてきた。残念ながら記録されてきた人類の歴史を振り返れば、そのことは明かだ。

 弱さの力とは、そういう内なる子供を決して殺すことなく、守り続ける力のことだ。

 それは相手の立場に立てる精神の広がりと、思いやりの心によって生み出される。どんなに傷つけられても、絶対に「子供」を手放さないでいること。そのために人を傷つける剣を手にするのではなくて、内なる「子供」を守るための楯を身につけること。

 弱さの力を持った者は、それを持つが故にさらにこの世界では生きにくくなる。それを持つことによって、よりいっそう弱い存在となる。そういうものを「力」と呼ぶのはおかしいと思われるかもしれない。

 強さの力の優勢な世界の中では、そういう弱さの力に目覚めた人間は、ただの「デクノボー」として人の眼には写つるだろう。宮沢賢治の夢想したあの『雨ニモ負ケズ』に描かれている、ヒデリのときにもただオロオロと歩くだけの「デクノボー」である。

 そういうデクノボーにいったいどういう力があるというのか。それは強さの力が優勢な世界にいると、なかなか見えてこない。それは決して歴史の表舞台には現れたことがない。しかしどんなに強さの力が吹き荒れた時代でも、弱さの力は消えることなく生き延びてきた。

 こんな話を最近聞いた。私が週一回アルバイトに通っている精神科の病院の作業療法士の人からだ。彼女は正月休みにネパールへ行き、最終日にひどい風邪を引き、飛行機の中でうなりながら帰国したという。仕事がはじまっても、ほとんど半死半生状態で、患者さんを相手に作業しながら、ぼけーっとただ座っているだけの植物人間状態でいたという。

 するといつもはほとんど黙ってこちらからの働きかけにも乗ってこないような、いわゆる無為・自閉傾向の強い患者さんたちが、ふと向こうから近づいて来て、心配そうに話しかけてきたりしたのだそうだ。それはまったくの驚きだったという。

 こちらがやる気満々のときには、いくらはっぱをかけてもテコでも動こうとしなかった、まったく自分の内側に閉じこもって周囲には無関心でいると思われていた患者さんたちが、まさかそうやって人のことを思いやる心配りを持っていたとは想像していなかったというのである。

 私たちは忙しすぎて、そういう人たちの世界とは違う波長の世界に生きてしまっているのかもしれない。一部のそういう人たちとコンタクトするためには、もっと私たちの生きる速度を落とさなければならないのかもしれない。車に乗って旅をするよりも、徒歩で旅をする方が、はるかに多くの情報や体験と出会うことが出来るように。

 彼女は自分が病気になってスロースピードで動くようになれて、はじめてそのことに気づくことができたという。

 今の日本の社会は本当に、人々の生きる速度が限界までに早まっていると感じる。日常的な物事は、分単位で刻まれてしまっている。この国に生きる人々全員が、息を切らしながら、一団となってなってハイスピードでどこかに向かって突っ走っている。群からはずれた者があっても、いちいち振り返って顧みる余裕すらもなくなっている。

 同じいかだに乗って、互いの顔だけを見ている乗客たちには、そのいかだがどんな速度で動いているのかわからない。そのいかだはかつてはもっとゆっくり流れていたのだが、いつしか急流に巻き込まれ、どんどんと速度を増しながら、どこかへ向かって突き進んでいる。それがいかに危険なものであるか、そのいかだに乗っている者たちは気がつかない。

 そのいかだに足手まといであるということで、はじめから乗せてもらえなかった者たち、つまり心身の重度な障害者たちや、そのいかだに途中で振り落とされてしまった人たち、すなわち統合失調症の人たちや不登校・ひきこもりの人たちなどは、岸辺に立ったまま、急流に流されていくいかだの行方をアゼンとして見送っている。

 そこからはそのいかだの狂ったような速度がいかに危険なものであるか、よく見えている。しかしいかだに乗った者たちに、いくらそのことを伝えようとしても、声は届かない。

 いかだの速度を落とすことだ。

 それがどんな所に向かっているのかを知るためにも。その先は轟音(ごうおん)のとどろく千尋(せんじん)の滝壺なのかもしれないのだ。

 そうして振り落としてしまった者たちを、もう一度いかだに乗せていこう。ゆっくりとした速度であれば、すべての人たちを乗せることができるだろう。

 今までは互いに向けあっていた顔を、岸辺の方に向けよう。自分たちがどんな所を下っているのかを知るために。

 そしてその旅を楽しもう。眼前を流れていく風景を楽しむ余裕を捨ててまで、急ぎ到達しなければならない土地などはじめからなかったのだ。

 弱さの力は速度を落とさないと見えてこない。強い力が、雄叫びを上げてぶつかり合っている世界では、弱さの力はかげろうのように背景に引いてしまう。

 しかしそれは決して消え失せたわけではない。強くあろうとしたものたちが傷つき、休息せざるをえなくなったとき、闘いの終わった戦場のしじまに、歌う虫たちの声がはじめて耳にとどいてくるように、世界は弱さの力によって包まれ、満たされていることに気づくことだろう。

 人が年老い、傷つき、弱ったときこそ、弱さの力は輝きをます。この世界に弱さの力に目覚めたデクノボーたちが、もっともっと増えていったとき、私たちの世界はさらに生きる速度を落とすことが出来る。そういう世界では弱さの力はきっと太陽のように輝くことだろう。

 それはどういう世界なのか、私たちが今まで作ってきた世界とどのように違うのか、ちょっと想像してみて欲しい。

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