<出会うということ>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)
<出会うということ>
つい先月のことだ。あいついで、古くからのクライアントに死なれてしまった。一人は衰弱死、もう一人は交通事故で。
どちらも私とそう違わない年代の人で、病気のため不幸な半生を送ったが、ようやく病気も安定し、これから一花咲かせようというところだったのも共通している。
お二人の供養のためにも、少し思い出を語ってみたい。プライバシーや医師としての守秘義務の問題というのがあるが、たぶんすでに天国にいるお二人はきっと許してくれることだろうと思う。
一人はNさん、50代前半の女性だ。彼女とはたぶん10年近いつき合いになる。認知症の母親と二人暮らしの女性で、独身だった。しかし、けっしてひっそりと暮らしているというわけではなく、友人も多く、よく旅行へ行ったり山などへ登ったりしているようだった。
体格は小柄だが、性格は豪放磊落(ごうほうらいらく)で、ちょっと親分肌というか人の面倒見がよいところがあった。かといって、人と群れるタイプでもなく、いつも一人で生きているようなところがあった。
そのNさんが入院してくるときは、まさに疾風怒濤(しっぷうどとう)だった。ある日とつぜん家具を庭で燃やしはじめたり、近所の家に怒鳴りこんでいったりという状態となっては、兄弟や親類などに病院まで連れてこられる。
入院するときも外来で医者を大声でののしったり、威勢のよい啖呵をきったりと、けっしてすんなりとは入院してくれない。そうなったときの荒ぶる彼女はもう誰の手にも負えなかった。
結局は何人かで押さえこんで、麻酔薬を注射して眠らせ、保護室に入ってもらうことになる。保護室でも何日かは暴れるが、たいがいは一週間 ほどで、そのはじまりと同じように、とうとつに正常にもどる。けっろとして、なんでこの人病院にいるの、という感じになってしまうのだ。
一時の狂乱がおさまれば、ただの人なのでそう長くも入院させておくわけにもいかない。だいたい一ヶ月ほどで退院になるが、しかしまた一年たらずで、この状態になって病院に連れこまれてくる。
家族はそれを恐れて、もっと長く入院させておいて欲しいというが、そういうわけにもいかない。
薬も気分調整剤を中心にいろいろとやってみたが、きちんと薬を飲んでいたときの方が、かえってこの周期が短くなったりして、薬でのコントロールも困難だった。本人も、私は薬が嫌いだからと、いつしか病院にも来なくなってしまう、そして忘れたころにまた入院してくるということをここ十年来くりかえしていた。
病気でないときに外来にやってくる彼女は、いつもきちんとしすぎるくらいに化粧をして、言葉づかいも丁寧すぎるような固い印象があった。 その自分を押さえすぎることが、やがて爆発につながるのではないかとひそかに分析したりもしていたが、その見込みはぜんぜん見当違いで、やがてそれはただ 私のことを信用していなかったからだということがわかった。
つまり化粧すること、そっけなくすることで、彼女は自分のなかに土足で踏み込まれることを拒否していたのだ。そういう自己防衛は非常に健康なものだ。精神病圏の人たちというのは、そういう自己防衛が下手な人たちが多い。その点では、彼女の病像は一見精神病圏の人のようにみえるが、けっしてそうではないということだ。
いつか彼女の方から、「おかしくなりそうなので入院したい」といってきてくれたことがあった。そうやって自分でうまく病院を利用してくれることができるのがベストだと思えた。
このころからだろうか、私と彼女との間に、ただの医者と患者という関係を越えた戦友というか仲間みたいな感覚が生まれてきたのだと思う。そうしてからの彼女は、それまでとはうって変わって、ずいぶん柔らかい部分をみせてくれるようになった。
彼女は若いときから、書道では異才を放っていたらしい。
女子校時代に書いた書がある書道家の目にとまって、弟子になることをすすめられた そうだが、けっきょく上京し、とある作家の家にお手伝いさんとして奉公することになる。
姉の話によれば、その住み込んだ先の某作家にむりやり性的な関係を強要されたらしいということだったが、それが本当に本人の望むものだったものなのかどうか、とうとうくわしい話は聞くことはできなかった。
やがて彼女は実家にもどり、母親とともに農業を営みながら、また書道を習いはじめた。書道何段だかの免許があったようだ。
しかし入院中私がどんなにすすめても、けっして人前で筆をとろうとはせず、書道に対してはなにかその才能をみずから封印してしまったかのような趣があった。がんとして筆をとろうとしない姿勢は、逆にどれほど書道が彼女にとって大切なものであるかを暗示していたと思う。
病の最中には「私は東京に出てやらなければいけないことがある。だからこんなところにはいられない」と切迫した口調で語っていた。しかし こちらの世界にもどってきてからは、そのことについては私がどんなにたずねても決して語ろうとはしなかった。
もしかすると彼女の「病い」とは、人一倍の創造性を持って生まれてきた人間が、運命によって、あるいはほんのわずかななにかが欠けていることによって、それを人々に表現として手渡せなかった者たちの辿るある種のモデルだったのかもしれないと感じる。
一人の芸術家が世に出る背景には、その何十倍、何百倍かの、世に出られぬ者たちの存在がある。あるいは彼女が女として生まれてきたのではなく、男に生まれてきたとすれば、彼女は病気にはならなかったのではないか、ふとそう感じることもあった。
彼女が暮らしていたのは、都市の郊外にある農村地帯だったが、しがらみの多い人間関係やコミニュティのなかで、彼女のみは超然としているところがあった。しかし入院にいたるストレスには、いつも近隣との心理的な確執が大きな影を落としていたようだった。
つい先頃まで、田舎の息苦しいコミュニティのなかに、創造性を持って生まれた女性は、悲惨な運命を辿る傾向があった。今はそういう人たちももっと楽に生きられるようになったのだと思いたい。
彼女が日常的に自分を律していた、ある種の古風な考え方と、彼女がときおりみせるパワフルな磊落さとの深いギャップ。それはなにより病気のさなかで、つながれた 鎖を断ち切ってその姿を現したように思う。
その乖離(かいり)がもはやバランスが取れないほどに傾いたとき、彼女は発病するように私には思えた。
「病気」という形をとって、彼女は女として生まれたこと、彼女を押さえつけるものに向かってはじめて牙をむくことができた。しかし、しょせん「病気」という表現ではなにも変えることはできないのだ。
私と彼女にできること、それは病気にならないと出てこない「彼女らしさ」というものを、もっと日常の中で広げていくことだった。
数年前、やっとのことで彼女が長年世話をし続けきた、呆けた母親を養護施設に預けることを認めてもらった。そうして彼女自身もだいぶ楽になったように思えた。
しかし、そのしばらく後に再び彼女は夢幻様状態となって、近所に住むある主婦、彼女の言葉を借りれば「恐ろしい女」に、暴行を加えるという事件を起こして再び入院してきた。相手は幸いたいした怪我もないようであったが、一歩間違えれば重大な結果をもたらしていたかもしれないと私は感じた。
彼女は病気のときの出来事を完全には思い出せなかったし、病気であることをどこかで否認しているところがあった。日常と病気の状態を分け、病気のときの状態は自分じゃないと思おうとしているというのか。それはある意味で病気に甘えていることだと前々から感じていた。
私は彼女に病気であることをしっかりと認識してもらいたかったし、日常から逃げ出すのにもう病気というやり方をとったり、病気のときの彼女を自分ではないと切り捨てるのではなく、その部分も彼女の中に統合していってもらいたかった。
そのため彼女との信頼関係ができたと感じたときに、「病気のときのあなたは恐いと感じる」とはっきりと指摘した。
そして薬を飲みながら、ちゃんと自分をコントロールしていく必要があると話した。そして今後は人生を楽しもう、できれば田園での生活を捨てて、都会で生活したらどうかとも話し合った。
その後、彼女はふっきれたように台湾にいた年上の友人のもとに遊びにいった。押さえつけていたものから解放される旅行のはずだった。しかし数ヶ月後、そこでも彼女は錯乱状態となって、アパートの五階から飛び降りようとする騒ぎを起こした。
そして再び、私のところに送り込まれてきた。いったい何が彼女の変性意識へのスイッチを押したのか。私たちは話し合った。性的な潔癖さ、母親との葛藤などというテーマが浮かんできた。しかし私の未熟さもあり、二人がはっきりとした気づきに達したわけではなかった。
あるいは彼女の病気はただの脳の変調であって、病気に意味があると考えようとしていた私たちはともに敗れたということなのかもしれない。
でもまた明日があると思っていた。
だが、いつしか通院もとだえ、一年半近くが経ってしまっていた。便りのないのが無事なあかしと、私は彼女のことを忘れかけていた。
六月のはじめの当直の夜に、彼女の姉から電話がきた。また具合が悪くなって入院させたいということか。
「またきたか」と私はどこか、うきうきするような気分で電話に出た。しかし、その姉からの連絡は、彼女が亡くなったという唐突な知らせだった。
五月の終わりに母親が亡くなり、葬式などでごたごたしていたが、そのころからほとんど食事をとらない様子だったという。
母親が亡くなってちょうど一週間後のその日、電話をかけても出ないので叔父が様子を見にいって発見された。検死となり、死因は心筋梗塞と診断された。しかし姉の話ではほとんど衰弱死に近いものだったという。
ある意味で彼女はすごい人だった。人並み以上のパワーを持ちながら、それをどう使っていいのか、彼女自身も、彼女の周囲もそれを持て余していたのだ。
私は彼女の人生はこれからだと思っていた。彼女の持っているパワーを飼い慣し、それを生かせるのはある種の成熟が必要なわけで、勝負はこれからだと思っていた。
しかし、彼女は母親の死をきっかけに、すべての執着を手放した。「もういい」と思ったということだろう。
母親の死で年金が入らなくなるという生活上の絶望感もあったのかもしれない。あるいはうつ状態にあって、いまこそ医療の助けが必要な状態だったのかもしれない。私がいった「病気のときのあなたは恐いよ」という言葉はどこかで彼女をひそかに追い込んでいたのかもしれない。
真相はわからない。いずれにしろ彼女はひっそりと消えるようにこの世を離れていった。Nさんの死の知らせはショッキングなものだったが、それを受け入れられないことはない。お互いよくやってきたよ、というつながりをどこかで感じていたからだ。
そのNさんの死の知らせを聞いたちょうど一週間後、やはり私が診ていたMさんが交通事故にあったという連絡を病院から受けた。
頭部を損傷し、全身状態はシビアとのこと。当直のため病院に向かう途中、Mさんが運ばれた病院に立ち寄った。
集中治療室で面会したが、もはや人工呼吸器によって生か されている状態で、いわゆる脳死の状態だった。お世話になっていた社会復帰施設の職員がずっとつきそっていてくれて、「Mさん、先生が来てくれたわよ」と 呼びかけてくてたが、むろんなんの反応もない。Mさんの顔がいつもの倍以上に腫れ上がっているのが痛々しかった。
それから数十分後、勤務先の病院についてすぐに、Mさんが亡くなったという知らせを受けた。まるで私が面会にいくまで待っててくれたかのようだった。
翌日の葬儀は彼が所属していた社会復帰施設の職員や仲間たちでいっぱいだった。十年近く前に、私のいた病院に入院してきたときはほとんど一人ぼっちに近い境遇だったのに、いつのまにかこんなにたくさんの仲間ができていたことに驚いた。
彼は私とほぼ同い年だった。入院してきたときが三十代の半ばで、ある地方のホテルのコックをやっていたが、その腕を見込まれてある観光地にオープンする料理屋の店長として引き抜かれた。
そこで「オリジナルな料理を開発しろ」という経営者からの命令のプレッシャーに耐えかねて、いつしか飲酒量が増えていった。やがてその重圧に耐えかねて失踪し、千キロ離れた土地で自殺を図った。だが命は助かり、その土地の病院に入院させられた。
そして家族の希望で、私のいた病院へ移送されてきたのだ。
やがて病気からは回復したが、彼の数年間の苦悩の体験は、もはや彼のもっとも敏感な部分や、料理人として必要な繊細な感受性や、精妙な技能を奪ってしまっていた。ある種の病気は回復したあとも、こういう残酷な障害を残すことがある。
幸いなことに、近隣に新しく入所型の社会復帰施設がオープンすることになり、彼は調理師の資格を買われて、そこの厨房で手伝いとして働くことができた。
しかしいざやってみると病気になる前のようには体が動かず、かつてはなんでもなくやれていたことすら単純なミスの連続だったようだ。彼よりはるかに年下の新米にも怒鳴られたりして、彼の自信とプライドはずたずたになったことだろう。しかし彼は、その過去のプライドにこだわることなく、ほとんど見習いのやる仕事をただ黙々とこなしていた。
かなりの期間、精神的に不安定な状態が続いていた。強い睡眠薬を飲んでいるにもかかわらず、頑固な不眠に苦しんでいたし、しばしば考え込みすぎて、そういうときは暗い部屋に一人で、包丁を前にして目が据わることもあった。
そのたび親身になって彼を心配してくれる施設の職員によって、病院に連れてこられた。短期間の入院をしたこともある。
彼がいつも悪くなるときは、彼個人の問題でというよりも、職場全体の問題とか、社会復帰施設全体の問題に過敏に反応するようなところがあった。そういうコミニュティとか場全体の動揺を彼自身が真っ先に受け取ってしまうところがあった。
ここ二年くらいだろうか。ようやく精神的にも安定して、私もやや余裕を持って彼をみることができるようになった。
睡眠薬を減らしても眠れるようになったし、職場の動揺にも動じないようなしたたかさが出てきた。
調理の腕は元通りにはならなかったが、誠実な人柄が職場でも信用されるようになっていった。同じ病気を持つ親友もできて、休みの日はその友人と、おいしいものを食べ歩きするという楽しみもみつけられた。その友人には、何年かしたら自分の店を持つんだと夢を語っていたという。
事故は職場の同僚にさそわれて、近くの街のスナックに遊びに行った帰りに起きた。
彼は助手席に座っていて、シートベルトもしていたが、カーブを曲がりきれなかった車は助手席から電柱にぶつかっていった。
運転者は軽傷ですんだという。私は彼が誰かの身代わりになったような気がしてならない。沈みゆく船にいても、誰かにボートを譲ってしまうような、そういうやさしさが彼にはあった。それが彼が病気に追いこまれていく、生きにくさの根っこでもあったのだが。
不思議なことに、なぜか彼は私のことを信用してくれていた。「先生が病院を辞めたらおれどうしよう」といってくれたのは、彼くらいのものだ。私が病院を辞めるという噂が出たときがあって、そのときは真っ先に飛んできて、怖い目で私に問いただした。そんなことないよ、というと本当に助かったという表情を浮かべてくれた。
正直にいって、彼は私にとってNさんのように特別な患者ではなかった。私が今まで診てきた数百人の中の一人でしかなかった。
彼が良くなっ たのもほとんど薬のおかげだと思っているし、これほど安定できたのも社会復帰施設の職員や友人たちが身近にいて、いつも彼をささえてくれたおかげと思う。私のやった役割など、たぶんどの医者でも代わりのきいた端役でしかなかったと思っている。
しかしNさんやMさんがいなくなってみていま私が感じていることは、この人生の中で人と出会うことは、たとえ医者と患者という違う立場で出会うことであっても、互いが見えないへその緒みたいなものでつながれ合うことであり、ときにそれはうっとうしいとさえ思うことがあるが、そうして一度そうしてつながれた誰かが、私の前から突然消えてしまうことは、そのへその緒みたいなものを生きたままもぎ取られることなのだということなのだ。
私の中のみずみずしい何かが、いまむしり取られ血を流している。でもそれがまさに生きているということだと思う。たぶん私たちは一人で生きているのではない。私たちという存在は、胎児と母親がへその緒でつながれているように、いままで出会った人たちと見えない何百ものへその緒でつながれた存在なのだ。
私はいままで、新たな人との出会いを、そのめくるめきを、人生の目的にしてきたように思う。しかし私はもう人生の半分以上の道のりを歩んできた。たぶん今まで会ってきた人の数より、これから合う人の数はずっと少ないだろう。
今思うことは、新たな出会いよりも、今まで出会ってきた人たちを大切にしていきたいということだ。二人の死から、そのことをやっと気づかせてもらったと思う。
埴谷雄高(はにやゆたか)という作家が、たしか「友情とはなにか」と聞かれてこんなことを答えていた。「奇跡的に同時代に生まれたことへの驚異と哀感」と。
たしかに何万年もの現世人類の歴史の中で、奇跡的にこの同時代に生まれ、しかも何十億もの人類のなかで、この一生に出会う人間の数は限られている。
その数はたとえどんなに少なくとも、出会うこと自体が奇跡なのだろう。そしてそれは何十億年もの宇宙の運行の時間に較べたら、はかないほんの一瞬の伴走にしかすぎない。だからこそそれは得難いものなのだ。
私は素朴な死後の生の信奉者なので、やがてあの世でまた二人にめぐり会うことができると思っている。そうして「あのときは大変だったけど、けっこう面白かったね」と語り合うことができると信じている。
人生とはピンボールゲームのようなものだと思う。はじいた玉はいつかは台の一番下の穴に吸い込まれる。そのあいだどんなゲームを共有したか、それがかんじんだ。
私たちはやがていつの日かこのゲーム場を後にし、向こうの世界で同時代を伴走した友人たちと再会するのだろう。そしてビールでも飲みながら、互いに競い合ったゲームのことをああだこうだと品評し、そして肩を叩いて笑いあう。
私はその日のくることをなによりの楽しみにしている。