<My Favorite Place>

その一 神田 薮蕎麦

神田の「藪」蕎麦がお気に入りでした。
昼下がりの二時頃に行くと、運が良ければ中庭を眺められる座敷に座れました。
目的はもちろん昼酒です。
突き出しに出てくるそば味噌を肴に、ぬる燗を1合は飲めました。
あと、海苔を頼むと小さな木の小箱に入っており、箱の下には引き出しがあって、そこに炭が入っており海苔が湿気ないように配慮されていました。
さらにかき揚げや鴨焼きなどを頼んで、三、四合は呑んだと思います。
締めはもちろん蕎麦。確か少し緑がかっていました。
広い店の中に高台(こうだい)があり、女将がそこに座り、注文がはいると、高い声で復唱するのが独特の雰囲気を生んでいました。
残念ながら、何年か前に火事で消失してしまいました。
生きている間に、志ん朝の落語を聞けたことと共に、藪に通えたことは自慢です。

そのニ 神保町 ラドリオ

あと良く行った店に、神保町の三省堂の裏路地にあった、「ラドリオ」があります。
昼は喫茶。夜は酒場となりました。
後年半分の広さになってしまいましたが、かなり広いお店で、50人くらいは入れたと思います。
入り口も2ヶ所ありました。
でも、頻繁に行くようになったのは、半分の広さになってからです。
入り口のすぐにカウンターがあって、おそらく明治大学の教授たちがよく大声で歓談していました。
カウンターの中には、どちらかというと美人ではない系の、オバチャン方が3人ほどいて教授たちの話し相手になっていました。
それが気さくな雰囲気をつくっていたのかもしれません。
冬には、旧式の石灰岩のような面が真っ赤になって暖めてくれるストーブがいくつか置いてあり、それが独特の雰囲気をただよわせていました。
名物は小さな俵形の一口コロッケ。それをつまみにウヰスキーの水割りを飲んでいたと思います。
お気に入りの席は、路地裏に面した窓際の席で、そこから三省堂の方を見ると、レンガ塀の建物があったり、まるでドフトエフスキーの小説に出てくるサンクトペテルブルクみたいだ、と思ったことがあります。
ある時行ったら、経営者が代わったらしく、建物はそのままだったんですが、オバチャンたちが一掃され、一口コロッケも無くなっていました。
それからは二度と行ってません。

その三 新宿ゴールデン街 無酒

二十歳をすぎた頃、毎週末のように、友人の竹内と新宿ゴールデン街へ通っていた時期がありました。
作家などに会えたらという下心からでした。
ボッタクリの店もあるということなので、どの店に入るかさんざん迷いました。
そして、僕が恐る恐る一件の店のドアを少し開け「いいですか」と声をかけてみました。
オーケーをもらえたので、入りました。
椅子が五、六席のカウンターだけの小さな店でした。
店の名前は「無酒」と書いて、ムッシュと読ませていました。
マスターは眉毛の太い小柄な人で、優しげな印象でした。
思わずほっとしたことを覚えています。マスターは作家で、ある雑誌の新人文学賞を取ったばかりとのことでした。
ツマミはほとんど乾きもので、時々思いついたように、煮干しをフライパンで炒め砂糖と醤油で味つけしたものを出してくれました。
我々は緊張していたのか、ほとんど会話せず、古いジュークボックスから流れる曲を聴きながら、ただホワイトの水割りを飲んでいました。
それだけの店でしたが、一年くらいせっせと二人で通いました。
時に長居し、横浜駅からの京急の終電に間に合わないこともありました。
仕方ないので西口の駅前のベンチなどで始発を待ちました。
いろんな人間がいて、荒れて一升瓶を割る奴なんかもいましたが、けっこう色んな人との会話しました。
煙草を勧めると皆打ち解けてくれました。

時々、唐十郎が向こうの店で喧嘩している、などの情報が入ってくることはありましたが、じっさいに文化人に会うことはありませんでした。
なんであんなに竹内と二人、取り憑かれたようにゴールデン街通いをしたのかは、今となっては理解不能です。
ただいえることはその時期竹内が一番の親友だったことです。
竹内とは、吉本隆明やフッサールなどの読書会もしていました。石井直人というインテリと、東京高考会(考える高校生の会)の増田康彦がメンバーでした。
僕はプータローでしたが、濃密な一年でした。

「昔通った店」シリーズを三つ紹介しましたが、神田、神保町、新宿といずれも東京でした。
実は僕の人生の中で一番通った店はヨコハマにありました。
中区長者町にあるjazzバー「FIRST」です。
これから、何回かに分けてFIRSTの思い出を語っていきたいと思います。

京浜急行の日ノ出町の駅を出て、伊勢佐木町方面へ歩いてすぐの橋を渡り、2つ目の通りを右に曲がると、裏路地にFIRSTの看板が見える。
僕がはじめてFIRSTに行ったのは、高校二年の時だ。
その頃、僕は帰宅部で、よく放課後に新しい喫茶店を探しに街をブラついた。
自分でみつけたり、人に連れてってもらったりしてしだいに縄張りを広げていった。
「ムーティエ」「グッピー」「クレオ」「塾」などなどの名前を思い出す。
「クレオ」はワイシャツに蝶ネクタイの主人がかしこまっており、床が板張りで気が落ちつく床油の匂いがした。なんかひなたのような店だった。
それに対し、「塾」はハードロック喫茶で、ドアを開けると真っ暗闇の中から、ロックの轟音が飛び出してきた。
場所も福富町という当時のヨコハマでももっともディープな町のビルの中にあり、不良学生のたまり場だった。店の中はタバコの煙が充満し、息苦しいほどだった。
その日、僕は学校のある黄金町から、日ノ出町に向かって路地裏を歩いていたんだろうと思う。
もうすぐ大通りに出るという所にFIRSTはあった。
狭いカウンターだけの店で、大音量でjazzが流れていた。
当時はjazzが全盛で、あちこちにjazz喫茶があった。
コーヒーかなにかを注文して、制服のまま何気なくタバコを吸ったら、カウンターの中のマスターに怒られた。
それが驚きだったのは、他の店では平気で吸えていたからだ。大人から本気で怒られたのははじめての体験だったのだ。
それがFIRSTとの長いつき合いのはじまりだった。

マスターは隻眼で、一見気難しそうに見えた。
かなりのjazz通でもあるはずだが、偉ぶるところはなく、話しかけると気さくに答えてくれた。
70年代中ごろ、ユーミンやサザンの登場とともに、jazzは急速に衰退した。
ネクラの時代は終わり、ネアカの時代がはじまったのだ。
ある日、商店街を歩いていると、ユーミンの「あの日に帰りたい」が流れてきた。
それを耳にして、時代は変わるな、この年を覚えておこうと思った。1975年だった。
その頃、店は二、三軒隣に移転して、jazz喫茶からjazzバーへと変身し、夜のみの営業となった。
店もかなり広くなり、ライブのためグランド・ピアノが置かれ、椅子も30脚ばかりあったろうか。
店の内外は、グリーンがかったグレーに塗られ、灰色が好きな僕の好みだった。
なにより圧巻なのは、レコードの数。カウンターの向こうの壁の端から端まで、何千枚あるのかレコードで埋めつくされていた。

ターンテーブルの上には、今演奏されているレコードが額に入れられて展示された。
基本的にはマスターと奥さんの二人できりもりしていた。
移転当初のころは、近くのクラブなどで演奏を終えたバンドマンたちが訪れていた。
夜の九時を過ぎると賑わいはピークとなった。

お酒は、ビールからシャンパン、カクテルまでなんでもあった。
まず、ビールを一杯。アサヒの黒ビールのお洒落な小瓶もあった。
その後は、もっぱらウヰスキー(気どってシーバスリーガルを)を、水割りか炭酸割りで飲んだ。
3人だとボトル1本は簡単に空いた。
締めにドライマティニなどの強い酒で締めることもあった。

食べ物は、つまみ系から各種ピザやパスタなどの食事系まであった。
酒を注文すると、お通しが出てきて、これが小皿いっぱいのミックスナッツだったり、けっこう食べごたえのあるつまみの盛り合わせだったり、一次会でお腹がいっぱいのときはいささか迷惑でもあった。二次会で行ったときは、お腹がくちくて、お通しだけで酒を飲むこともあった。
名物はコールドチキンで、蒸し鳥をスライスし、中華風のタレをかけ、添えてある白髪ネギとキュウリの千切りをチキンで巻いて食べるのだ。
あとよく頼んだのは、チーズの盛り合わせ。6種類くらいのチーズが皿に盛られており、中には山羊のチーズやオレンジ色のものなど、見たこともないようなものもあった。
そこには、枝つきのレーズンがつけられていたのがお洒落だった。
レーズンのほんのりとした甘さが、チーズの味わいを濃厚にした。
お腹か空いているときに必ず頼んだのは、玄米餅のチーズ焼き、で茶色い玄米餅の上にチーズを乗せ、オーブンで焼いたものだ。これは箸で食べた。
箸を配ってくれるとき、色とりどりの箸なので、赤と白、黒と青など勝手に組み合わせて使っていた。
野菜スティックやポテトフライも定番だった。
ウインナー炒めと、ウインナーの煮込みというメニューがあって、いつもどっちを頼もうかと迷ったが、コンソメスープ風のもので煮込んだウインナーの煮込みを頼むのだった。

六時開店で、午前二時までやっていた。
つい、終電の時刻を逃し、贅沢だがタクシーで帰ったことも何回かある。
それほど立ち去り難い魔力が、この店にはあった。
それはいったいなんだろう。
音については、jazz専門店なのでいろいろとこだわりがあった。
スピーカーは、JBLの4343。当時、クラッシックならヤマハ。jazzならJBLといわれていた。暖かみのある、柔らかい音質だった。
アンプは真空管使用のもの。ターンテーブルは2つ並んでおり、切れ目なくレコードを演奏できていた。
同じ席に座っていれば、声を張り上げなくとも会話できる音量だった。

照明は落とされているが、淡いスポットライトが各テーブルを照らしていて、料理の色合いもよくわかった。
厨房から料理を出す小窓があり、フランス料理を学んだシェフがいて、蛍光灯の明かりがもれていた。
7、8席あるカウンターには、前の店から持ってきた、木の背中にjazzの名盤の絵が描かれている椅子が並んでいる。昔はもちろん、店の空間は煙草の煙に満たされていた。
jazzと煙草はよく似合う。
禁煙となってからは、なにか欠如してしまったような寂しさがある。
ワインもボルドー産のいいものがおいてあった。
僕はワインはわからないが、ワイン通の者がメンバーに二人いて、ワインを口にすると同時に、「これは佳いね」と言った。
冬の寒い夜には、オニオングラタンスープを頼んだ、それはけっこうボリュームがあり、心も体も暖かさでいっぱいになった。
あの店の雰囲気を一言でいうと、居心地のいい贅沢さ、言うべきものだろうか。

jazzについては詳しくない。
jazzを聴きに行くというよりは、jazzが流れている店全体のその雰囲気が好きだった。
客のリクエストにも気軽に答えてくれた。
僕の好きなjazzのアルバムは、ジョン・コルトレーンの「バラード」。曲の出だしの厳かさが好きだった。
それとビル・エバンスの「ワルツ フォー デビー」。ライブ版なので、背後の観客のささやかなざわめきや、咳声が入っているのがよかった。
あと、「ニューヨークのため息」と呼ばれたヘレン・メリルの「ホワッツ ニュー」。奇跡的なスイングと称賛された。
その他、何曲かを繰り返しリクエストしたものだ。

最初に行ったのは17歳くらいの時だから、50年近く通い続けたことになる。
途中、地方で暮らしていたときは間が空いたが、ヨコハマでクリニックを開いてからは、FIRST通いが再開した。
トータルで百回近く行ったのではないか。
マスターの名前は山崎昭といい、先日電話で話したが、今年で81歳になるという。声は昔と変わらずお元気そうだった。
僕にとってFIRSTは学校のようなものもだったかも知れない。
そこで何を学んだのかはわからない。
多摩の田舎に引っ込んで、足も不自由になってしまった今、もう2度とはFIRSTに行くことはないだろう。
でも、思いを馳せれば、いつでもあの雰囲気の中に帰ることができる。
マスターにリクエストすると、静寂の中から天地創造のように、コルトレーンのバラードが始まるのだ。

注:竹内誠也とは、18ぐらいの時に知り合った。千葉の柏の人間で、どうしてそんな遠くの高校生と知り合えたかというと、当時「考える高校生」という新聞が出ており、僕の担任がその新聞を購読していた。
その、読者モニターが集まって、東京考高会、神奈川考高会ができた。
東京と神奈川が交流したとき出会ったのが竹内だった。
しっかりとした自分の意見を持った大人と感じた。話しぶりに誠実さを感じさせるものがあった。むろん、今でもつき合っている。
石井直人は、児童文学の研究をやって、今は白百合女子大学の教授だ。
増田康彦は、理論派だったが、ある日を境に読書会には来なくなった。政治セクト絡みかな、と思った。残念ながら今はもうこの世にはいない。


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