<べてるの家という希望>(注:これは2002年か2003年に書かれたものです)


<べてるの家という希望>

 二月の下旬に北海道の浦河というところに行ってきた。

 人口1万6千ほどのこの街が、いまや世界中から注目を浴びる場所になってきている。精神障害者が主体となって、年商一億にも達する売り上げを誇るという会社があるからだ。その会社組織といくつかの共同住居(現在約150人ほどの精神科ユーザーたちが地域の中で分散して住んでいる)を総称して、「浦河べてるの家」と呼ばれている。

 たった5日間ほどの旅だったが、そこから帰ってきてしばらく経ってみても、なにか懐かしいような、そこでの体験をなぞるように、べてる関連の本を読み返したり、撮ってきたビデオを何度も見直したりしている。いまここにいることが旅先のような、そしてあそこが故郷だったような、そんな倒錯した気分になっているのに気づく。

 この「べてるの家」の存在を私が知ったのは、いまから5,6年前に偶然みたNHKのあるドキュメンタリー番組でだった。そこでは地域のなかで、主に統合失調症(分裂病)と呼ばれる人たちが、古い教会をもらいうけて共同住居として住んでいる姿や、自分たちで商売をしようと小さな会社を作ったことが描かれていた。

 しかし、その番組をみてもっとも驚かされたのは、年に一度、町の人たちも加わって行われるというべてるの総会の中の目玉として、「幻覚妄想大賞」というイベントがあるということだった。そういうオープンな場で、前の年にもっとも派手な幻覚や妄想を見せてくれた人を、実名でみんなの前で表彰するのだ。

 それも浦河日本赤十字病院の精神科の医者である川村敏明先生が「なになにさんは、こういう幻覚や妄想の症状でみんなを本当に楽しませてくれました」などとコメントし、賞状をその患者さんに手渡すシーンがあった。 

 その年の名誉ある「幻覚妄想大賞」を受けた患者さんへのインタビューもあったが、その人は「賞をもらって自分の人生が変わりました」という感想を述べていた。

 それまでは幻覚や妄想は自分を苦しめるだけのものであり、人に話しても否定的な反応しか返ってこないものと思いこんでいたのに、それを人前で話してこうやってみんなが喜んでくれるという体験をしたのははじめてだ。今まではそれを隠そう隠そうとしてきたのに、それをみんなの前で話してもいいんだとすごく楽になった、というようなコメントをしていたのが印象的だった。

 正直にいって、ぶったまげた。同じ医者としてそういうとんでもないことをやっている人がいることを知って、うれしくもあり、ボーゼンともした。

 当時勤めていた病院のソーシャルワーカーに、「こういうとんでもないことをやっている人たちがいるが知っているか」と聞いてみたところ、その人はすでに「べてるの家」のことをよく知っていて、そこには向谷地生良(むかいやち せいりょう)さんというすごいソーシャルワーカーがいて頑張っていることなどを教えてくれた。すでにその当時、「べてるの家」は医療の世界ではまだまだ無名でも、福祉の世界ではその名が全国にとどろいているようだった。

 そのときは凄いことをやっている医者やソーシャルワーカーがいるのだなとは思ったが、そういう地域活動に対する興味もなく、じっさいに日々目の前にいる患者のことで追われる毎日だったので、頭の隅にはいつも強い印象として残っていたのだが、なかなかそこに見学に行こうとまでは思わなかった。

 私が浦河の地で、いったいなにが起きているのか、ぜひこの目で見てみたいと思った背景には、私自身の抱えている問題があった。この二年間ほどカウンセリング専門の相談室という形で、横浜という場所で活動してきて、しかもいつしか成り行きで、ひきこもりの問題に深くかかわるようになっていた。

 私が精神科医であるということなのだろう。何人かの知り合いのカウンセラーから、精神障害を疑われるようなひきこもりのケースの相談を受けるようになった。

 今問題になっているいわゆる「社会的なひきこもり」とは、基本的には精神障害を持つ人を除くと定義されている。しかし実際は「統合失調症(分裂病)」などの病気からひきこもる人たちもいるわけで(むしろ「ひきこもり」をするのは、ほんの少し前まではほとんど統合失調症の人たちだというのが専門家の常識だった。私自身、十数年前にそうではないケースとはじめて出会ったときは心底驚いたものだ)、その線引きというのは、直接本人に会わないで、ご家族の話を聞くだけではかなり困難であることが多い。そういう微妙なケースがけっこう私のところにはまわってくる。

 そういう中で、この人は「ひきこもり」で正常だからめんどうみます。こちらは統合失調症と思われるので、一刻も早く病院にかかって薬を飲んでください。などという振り分け作業がしだいにむなしくなってきたのだ。やっててとても後味が悪いというのか。

 まだまだ精神科医の中にも不登校やひきこもりのケースに「統合失調症」という診断名をつける医者が多い。同業者として、そういう診断をつけたくなる心理もわかるような気がする。

 まずは医者は最悪の場合を考えていることが多い。最悪の場合とは、つまり「統合失調症」のことだ。でも、その背後にはこんな計算が働いているのではないだろうか。もし軽い病名をつけていて、後で統合失調症とわかったら(統合失調症の初期や幻覚妄想の目立たないタイプはそう診断するのが困難なことが多い)大変だ。それならはじめから重い病名をつけておこう。そうすれば当たっていれば問題ないし、もし間違っていても「統合失調症ではなくて良かったですね」と家族に申し開きができる。

 そう、私自身を含めて、精神科医がもっとも不安なのだ。精神障害に対し精神科医の持っている不安は、ひょっとすると他科の医者よりも大きいかもしれない。「もしかするとこの患者は統合失調症になるのではないか」、そういう不安が、不登校やひきこもりのケースにすら、抗幻覚妄想作用のある薬をやみくもに投与してしまう背景にはきっとあるはずだ。

 私自身、薬の効きにくい統合失調症の患者に対し、「治すことができない」という無力感がいつもつきまとっていた。ただ病院に閉じこめておくしかない、そういうあきらめみたいなものが治療者にも、たぶん患者さんにもあった。

 気まずい沈黙のようなものが、いつも病棟を支配していた。私が思春期のケースや不登校やひきこもりなど、精神障害ではないとされる人たちをもっぱら相手にするようになったのは、そういう一部の統合失調症の患者さんを前にして、なにもできない自分に深く傷ついていたからかもしれない。

 そうやって精神障害者から身を離すように逃げ続けてきた先で、再び精神障害者の問題とぶつかろうとは予期しなかった。でも今回は逃げようがなかった。こうも感じていた。けっきょくひきこもりの人であろうが、統合失調症であろうが、要は大切なのは信頼関係ではないか。統合失調症と診断され、無理矢理病院に入れて薬を飲ませても、そこに信頼関係がなければ退院後の治療の継続は難しい。

 そう感じだしたのは、ひきこもりで強制的に入院させられた人たちが、そこでひどく傷つけられ、家族もそうしてしまったことで、結果的に傷ついているというケースの相談をたびたび受けるようになったからだった。

 そうやってこの日本の社会に増加してきている、不登校・ひきこもりの人たちやその家族から、精神医療の抱えている問題をあらためてつきつけられることが多くなってきていた。とくに入院した精神病院での体験は、想像もしていなかった過酷なもので、なかにはそれをアウシュビッツに例える人もいるようなものであることは、残念なことであるがまだまだ事実なのだ。

 当たり前の感性をもった人間ならば、そこはまるで人間扱いされないとてつもなく異常な世界なのだ。そういう普通と言われる人たちが精神科にかかるようになってきて、あるいは病院に入院する機会が増えてきて、あちこちから「おかしい」という声が出はじめて、その声はしだいに大きくなってきている。

 今までの精神医療では、主に精神障害の人だけを扱ってきた。そういう人たちは、ほとんど抗議の声すらあげることのない大人しい人たちが多かったので、こんなやり方でいつまでもやってこれたのだろう。不思議なことに家族からも抗議の声があがることはめったになかった。「統合失調症」という診断がついたときに、医者も患者も家族も、みんななにかをあきらめていたのだ。

 どういう視点に立てば、正常と異常の間に線引きをすることなく、そこで同じような信頼関係をつくっていけるのだろう。そう悩むようになっていた。そのとき思い出したのは「べてるの家」のことだった。

 同じ精神科医として、どうしてあんな発想ができるのか。もう一度調べてみようと、べてる関係の本やビデオをいくつかみてみた。そうしてべてるの家のことを知れば知るほど、目からうろこがボロボロと音を立てて落ちていった。

 私もひきこもりの支援で、親などからお金を集めて、面白いアイディアを持った人に投資するという、ベンチャーキャピタルのようなものを作れないだろうかとぼんやり夢想していたが、べてるの家ではすでに生活資金に困ったメンバーために、無利子で融資する「銀行」があるというではないか。

 しかも驚くことにその銀行の頭取になったのは、元銀行マンの統合失調症の患者という。しかもまだ入院中の人だというのだ。こういう発想がすごい。普通なら責任者はスタッフがやるというのが相場だろう。

 なにか問題が起きるのではないかとおせっかいながら心配になるが、案の定、この頭取さんはときどき自分で自分に勝手に融資してしまうことがあるという。でも、なにか問題が起きてもあたりまえ、それを未然にスタッフがカバーしようとするのではなく、問題が起きたら、それをみんなで楽しんでしまえ、というしたたかさがべてるにはある。

 今べてるでは、一人ひとりの患者さんをタレントとして売り出そうという「プロジェクトB」という計画を推進している。「B」は「病気」のBだ。これは冗談ではなく、ほとんど本気で取り組んでいる。

 近年べてるの家の評判はとみに上がっていて、日本全国あちこちから講演の依頼があり、べてるのメンバーである患者さんたちが各地で講演をしてまわっている。ときには入院して2週間目という患者さんを川村先生や向谷地さんが無理矢理(?)飛行機に乗せて、講演に連れ出してしまう。

 もちろん様々なトラブルが続発する。壇上でマイクを持ったまま固まってしまったり、公演先で幻覚妄想状態が強まって逃げ出したり。でも、そういうできごとはさっそく、尾ひれのついた土産話となって、帰ってからそれをネタにみんなで大笑いするのだ。

 川村先生いわく「最大のライバルは吉本興業です」とのこと。

 「病気になってよかった」「分裂病になってよかった」、そういうメンバーの声が本やビデオの中で語られている。そんなことを平然といっている人たち、しかも実名で「分裂病の○○です」と自分の体験を人前で語ってくれる人たち、そういう人たちが住んでいる町は世界広しといえども、この浦河しかないだろう。

 いったいどのようにして、そんなとんでもない発想が出てくるのか。地域とのトラブルはないのか。実際にメンバーたちはどのように生活し、どう感じているのか。やはりそれをこの目でみてみないと信用できなかった。

 そういうわけで、私はこの2月のもっとも寒い季節に浦河に向かった。飛行機が苦手なので、往復とも寝台特急「北斗星」を使っての5日間の旅だったが、じっさいに見学できたのは、丸2日間ほどでしかなかった。それでも両手に抱えきれないほどのお土産をもらったように思う。

 家庭用ビデオを持っていって、浦河赤十字病院の精神科部長の川村先生、ケースワーカーの向谷地さん、ミスターべてること早坂潔(愛を込めてみんなから「きよしドン」と呼ばれている)さんをはじめとして、何人かのメンバーやスタッフの人たちのインタビューをビデオに撮らせてもらうことができた。

 あるときは私が泊まっているホテルに、川村先生がきよしドンをはじめとして何人かの患者さんをひきつれて突然やってきて、すっかりとまどう私に、みんなで酒を酌み交わしながらべてるで起きているいろんな面白い裏話を

 そこには広島からべてるに何日も泊まり込んでいるという医学生の女性もいたのだが、彼女は、ここにいると日常生活にもどってから、社会に適応できなくなると嘆いていた。川村先生が独特の温かみのある北海道弁で「発病しても、べてるがあるから大丈夫」とさかんになぐさめて(?)いたのが印象的だった。

 はじめてお邪魔するどこの馬の骨だかわからない人間に、みんな本当にオープンに接してくれた。とくにお忙しい時間を割いて、滞在している3日間ガイドしてくれた、べてるのスッタフであり、また浦河教会の牧師さんである濱田さんはじめ、取材に協力してくださったみなさんには、ここであらためて感謝の言葉を贈らせていただきます。

 ちょっと「統合失調症」について私なりに感じていることを説明したい。それは原因も、その機序についても、まだまだ未知の部分をいっぱい抱えた現代医学に立ちふさがる大きな謎としてある。まるであのSF映画『2001年宇宙の旅』に出てくるモノリスみたいなものだ。

 それは人々が恐れ、忌避しようとする「狂気」の代名詞として、20世紀を通してそれを克服すべく、様々な角度からの膨大な研究がなされてきた。薬物療法は急速な進歩をとげたし、精神療法的なアプローチも1950年代から70年代にかけてほとんどやりつくされた感がある。

 本屋に行けば、統合失調症に関する様々な精神病理学の、もはや華麗ともいうべき壮大な理論のつまった本が並んでいる。しかしその壮大な理論は、どこか現実の統合失調症の患者さんたちの頭上のはるか上の方で、蜃気楼のようにそびえ立っているものでしかないように思えてくる。

 現時点では統合失調症とは、心の病気ではなく、脳の病気であるという見解が主流になってきている。大脳生理学や遺伝子学的な研究、生化学的な研究のめざましい進歩は、あと少しで統合失調症の正体を暴き出すのではないかとも期待されている。

 たしかに統合失調症とは銀河系ほどの数の神経細胞によって構成される精妙な脳の病気であり、それの生化学的な神経伝達物質の想像を絶する膨大なネットワークの間の不調に基づくものであるであることは確かなようだ。

 だが、その最新のどんな知見や成果も、それが約100人に一人の確率で発生する、ごくありふれた病気であり、それを煩(わずら)った人たちにとっては、普通の人生を送ることを困難にしてしまうような、とてもやっかいなハンディキャップを後天的に生じるもので、ではそのハンデキャップを抱えながらどう生きていけばいのか、という生活者としての問題には、誰一人なにも答えてくれはしないのだ。

 統合失調症の人がこの社会の中でどう生きていくか、というなによりも根本的な問いを、どの研究者も、あるいは臨床家もどこかに置き忘れたまま、ただ一人ひとりの人生から切り離された「病気」の研究や治療だけに関心を向けている現状がある。

 浦河で試みられているのは、そういう医学的なモデルとは正反対のアプローチである。

 そういう病気を抱えた人たちが、社会の中で排除されずにどうやったら一緒に暮らしていくことができるのか、という大胆かつ実践的な試みが確かなものとして実現してきている。

 さらに驚くべきことに、生活の場から精神障害者を排除しないことが、そこに住む普通の人々の生活も豊かにしていくものであることを実感させてくれている。それがただの理想として語られているのではなく、現実のものとして存在し、20年のしたたかな歴史をこの地で刻んできているのだ。

 統合失調症という事態に投げ込まれた一人の人間に起きることとは、それは後天的なある種のコミュニケーション上のハンディキャップを抱えることに他ならない。幻覚や妄想がこの病の本質ではない。それらの症状が消退した後にも残る障害が問題なのだ。それは、一言でいってしまえば「ソフィスティケート」する能力の障害としてある。

 身ぎれいに装うこと、感じたことをすぐに口に出さないでいること、社交の場で如才なく振る舞うこと、そういういわばお上品な気遣いができなくなってしまうという障害がその本質としてある。

 乱暴ないい方をすれば、生きていく途中で、しだいに脳に負担がかかって、そういうソフィスティケートされた振る舞いを司るであろう神経回路がショートしてしまう。専門的には「感情の平板化」などという用語で表現されるのであるが、そういう種類の障害がその本質なのではないかと思われる。

 じっさい、家族から一緒に暮らしていて困ることなどを聞いてみると、幻覚や妄想に振り回される苦労も多いわけだが、日常生活のささいな違和感みたいなものも聞くことが多い。

 それは医者からすると、たいした問題ではないとつい思ってしまいがちなのだが、家族と患者さんが一緒に生活することの困難さの根っこにあるのは、しばしばそういう些細な生活上の違和感や、感覚のズレにあったりする。それはなかなか言葉にすることの難しいものなのだが、そういうズレの積み重ねがつもって、長期的にはけっこうボディブロウのように双方を参らせたりする。

 べてるの家の歴史はソーシャルワーカー向谷地さんが、1978年に無人の教会跡のボロ屋に住み込んだことからはじまる。やがて病院を退院してきた患者さんが、そこに一人二人と一緒に住みだす。

 患者さんたちと共同生活を送ったのは2年間ほどだということだが、本当にストレスの連続だったと語ってくれた。でもその生活の中で、ともに苦労していくための大きなヒントをつかんだという。それはとことん彼らを信頼し、そしてどんなときも元気づけていくということだった。病気の振るう嵐の中で、翻弄され続けた向谷地さんに残されていた、たったひとつの武器とは「ユーモア」だった。

 しょっちゅうパトカーが駆けつけてくるようなトラブルだらけの生活だった。警察に保護された仲間を、迎えに行って、本当ならがっくりと落ち込んで、トボトボと歩いて帰ってくるようなときにも、その仲間をとことん励まし、しまいにはみんなで笑いながら帰ってくること。どんなピンチの状況にあって進退きわまっても、それをユーモアの力でひっくり返してしまうこと。ただ向谷地さんがやってきたのは、そういうことだったという。

 通常我々医療関係者がやってしまいがちなことは、トラブルが起きるのではないかと、未然にそれを防ごうとしたり、あるいは起きたときも、すぐに病院に収容したりして、その問題を消去してしまおうとすることだった。

 しかし、そうしているかぎりはいつまで経っても、患者さんは当たり前の人間として扱われることはない。向谷地さんは、そういうやりかたを患者さんから「苦労して生きていく力を奪うものだ」と痛烈に批判する。

 そうして10万円を元手とした昆布の行商からはじまった会社で、患者と共にはじめた苦労が、いまや年商一億を誇るものにまでなっている。しかもその会社は「だれでも安心してさぼれる会社作り」という、突拍子のない発想で運営されている。

 患者さんたちは、その日その日で朝起きてみないと、働ける体調かどうかがわからないという現実がある。それはしばしば実社会では大きなハンデとなって、仕事が長続きできない原因となっている。しかし、ここではそれをみごとに逆手にとってしまう。

 ある人が働けないなら、別の人がその人の変わりに行けばいい。暇な人間だけはここにはゴロゴロといるのだ。

 べてるで発売している『分裂病を生きる』というビデオにあったシーンだが、ときには深夜のスーパーの掃除の穴埋めに、向谷地さんや川村先生までかり出されることがある。川村先生もただのパートの掃除夫として、嬉々としてモップ掛けをしていた。

 そういう一つ一つの大胆でユーモラスな試みの数々が、私たちのかたくなな常識をみごとにひっくり返えしてくれて、それはここまでやられるとなにか快感ですらある。問題だらけだが、それをみんなが楽しんでしまおうとしている。そういう底抜けの人間への信頼としたたかさがここにはある。

 川村先生は、自分は「治せない医者、治さない医者」であると公言してはばからない。

 最初はみんなと同じように「治せる医者」を目指していたが、この浦河の地に来てからの医者としての二十年間は、ただひたすら患者と共に転落してきた道だったという。そうしてとことん転落したところに、とても楽な場所があったという。

 それとみごとに呼応している言葉がある。統合失調症で今も幻聴に苦しむ清水理香さんの語ったものだ。

 彼女は長年幻聴に苦しめられてきて、ただひたすら幻聴さえなくなったら、病気さえ治ったら自分は幸せになれるんだと思ってきたという。しかし浦河にきて、その考えは変わったという。

 彼女はまだ病気は治っていないが、今が幸せであると感じるという。長年幸せはどこかずっと上の方にあると思っていたが、じつはそうではなかった。「幸せは自分の真下にあった」。そのなにげない言葉の凄さ。こちらの腹にどしんと飛び込んでくる。 

 私が浦河で手に入れた宝物がある。それはミスターべてること早坂潔さんに、ねだってもらった直筆のサインだ。キヨシさんが名刺の裏に書いてくれた文句はこういうものだった。「べてるに来ると、元気もうつるが病気もうつる。それでオーケー、それで順調」。

 私はこれを今相談室の机の上に飾っている。落ち込んだときこれをみると、じわっと元気が出る。あるいは私もべてるの家で病気がうつったのかもしれない。今働いている病院や地域にも、ひそかにサリンならぬべてる菌をまき散らそうと計画している。

 べてるの家の存在は、けっしておおげさではなく、人類全体の希望としてあると思う。

 そこに行けば精神障害者と呼ばれ、生活保護や障害者年金をもらいながらも、どうどうと人生を楽しんでいる人たちがいる。

 そこに行けば「病気になって幸せ」「今が幸せ」という人たちに会える。

 なんだ統合失調症になってもいいんだ。べつに治そうとしてあくせくしなくてもいいんだ、それを知ったとき、医者としても、一人の人間としても私はとても楽になった。

 「べてるの家」がこの地上にあることは、人類にとっての最大のセーフティネットとしてある。 

 私たちが長年わけもなくおびえ続けていたはずの、とことん落ちていったところ、どんどん降りていったところには、じつはこんな素敵な場所があったのだ。そう、私たちはもうなにも恐れるものはない。

 
注:私は川村先生から、日本で二番目の「治せない医者、治さない医者」の正式な認定を受けたことをここにご報告いたします。


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