<日本三大恐いところばなし>(これは2002年か2003年に書かれたものです)

<日本三大恐いところばなし>

 八月といえば怪談の季節である。しかし残念ながら私には霊感のかけらもなく、そういうたぐいの話は話したくても持ち合わせていない。それに代わってというか、私がいままで日本のあちこちを旅してきて、その土地のはじめて見る風景にゾーッと戦慄を覚えたことが何回かある。その話をしてみたい。

そういう場所は私のなかに三つほどあり、その場所との出会いはなぜかいずれも二十歳前に集中する。その場所はいま行ったとしても、その当時感じた戦慄を今再び味わえるかどうかは自信はない。

 たぶんそれを生みだした条件は、その時の季節や気候、時間やおそらくは私自身のそのときの心境との関数であり、それを再現することは不可能に近いからだ。いや、それよりもなにより、不意打ちという要素がもっとも重要なのだろう。そこを一度訪れてしまったいま、もう二度とその場所との、その不意打ちの出会いは用意されてはいないのだ。だからそこに行けば、誰もが私と同じような体験ができますとの保証はできない。それはある種の幸運ともいえる偶然に演出された、私的領域に属するものなのだろう。

 あれは高校一年の夏休みだった。SLマニアの同級生と寝袋をかかえての北海道めぐりの旅の途中、私たちは網走の町で泊まることになった。夏の北海道ということで、駅の軒下には同じように寝袋を抱えた若者たちが、今夜の寝場所を確保しようとごったがえしていた。どうにか寝場所を確保して、私たちは夜の町をぶらつくことにした。

 さんざん店の前を行ったり来たりしたあげく、勇気を出してちょっとあやしげな町のスナックに入った。冒険だった。

 ちなみに出発の日に、上野駅で週刊プレイボーイをはじめて自分で買ったのも、夕張の場末の映画館にもぐり込み、心臓をバクバクさせながらピンク映画(当時は日活ロマンポルノの全盛だった)を見たのも冒険だった。そのささいな冒険こそが自由への通路だと感じていた。十六歳とはそういう年齢だった。

 そのスナックで当時なぜか若者の間ではやっていたジンライムなるものを飲み、そのどう考えても安物の整髪料としか思えない味に大人への試練を痛感しつつ、酔いを抱えていっぱしの不良気分で網走の町を散策した。まだ夜の九時ごろだったとは思うが、メインストリートと思われる商店街は軒並みシャッターを降ろして、行き過ぎる人影もなく、ただアーケードの蛍光灯がぎらぎらと道を照らしていた。そのむなしい明るさが、地方の町の夜のがらんとした淋しさをより一層強調していた。

 そうやってただなにも考えず、ぶらぶらと歩いているときだった。ふと路地の暗がりに目をやった。私たちの歩いていたアーケードが、そこだけ切り取ったように明るいばかりに、目をやった路地の奥の暗闇は深かった。路地の闇をそのまま奥にたどっていったとき、私は予期せぬものをそこに見て、思わず飛び退きそうになった。

 つい十メーター先は海だった。そこは夜の港で水銀灯に照らされた漁船たちがむっつりと岸壁に並んでいた。

 網走が海沿いの町であることは漠然と理解していたはずだが、そんなに近くに海があるとは思ってもいなかった。ましてや町の中心部ともいえるアーケード街のすぐ向こうに、夜の海が待ちかまえているとは予想だにもしなかった。

 海の近くにいると、なんとなくその気配が感じられるものだ。わずかに混じる潮風の匂いや、ぽっかりと空いたような生活音の無さの感覚、あるいはかなり遠くにいても耳に入ってくるはずの船のエンジン音や汽笛の音など。そういう気配を消して、予期していないときにふと出くわす夜の港の光景は、思わず飛び退いてしまうほど恐ろしいものであることを、私は体験者としてみなさんにここにお伝えしたいと思う。

 しかし、これは三大恐い場所には入れてはいない。なぜならそれは網走ではなくても体験できたかもしれないものだからだ。ある特定の場所や風景の持つ恐怖ではなく、あくまでもどこでも起きうる夜の海との唐突な出会いの恐怖ということでしかない。

 前書きが長くなってしまった。じつは三大恐い場所の一つとは、ここまで来る途中の電車の車窓からみたある風景だった。この旅がはじまってまだ二日目のことだ。上野から夜行の急行の、お尻をいたぶる固いイスに座って、満足な睡眠もとれないまま早朝の青森駅についた。青函連絡船で函館まで渡り、そこから札幌へと向かう急行列車に乗った。列車はとても混んでいて、寝不足の頭でふらふらになりながら、札幌までの数時間立ち通しだった。函館を出てしばらくすると、進行方向右手にそれが姿を現したのだった。

 こんな空想をしたことはないだろうか。ある日突然数千万年の時を遡(さかのぼ)って、あの巨大恐竜たちがこの地上を跋扈(ばっこ)していたジュラ紀、あるいは白亜紀に投げ込まれてしまうという事態を。そこでの巨大な肉食恐竜との過酷なサバイバルを。映画「ジュラッシックパーク」がリアルに描いて見せてくれた悪夢だ。

 しかしそれはまだ生やさしい恐怖かもしれない。もっと時間を遡って数十億年前の、まだ一切の動物が出現する以前の地球へ、可憐なシダやコケが巨大な大木であったころの鱗木類におおわれた地球へ投げ込まれたとしたらどうだろう。

 動く生き物の姿が一切見られない太古の静寂に包まれた地球。固いうろこにおおわれた巨木たちが支配する植物たちの王国。もしそこに投げ込まれたら、私の正気はどれだけの期間維持できるかちょっと自信はない。動きのない世界の中で、やがてどんな危険な猛獣や恐竜でも、あるいは虫でもいいから、自分と同じく動く生命が現れてくれることをたぶん渇望するに違いない。

 私が北海道の風景として最初に出会ったのがまさしくその、まだいかなる動物たちも出現する以前の地球の風景だった。

 手前にはいやに青みがかった無数の沼沢が原生林の中に広がっている。そしてその向こうには赤茶けた土むき出しの異様な山がそびえている。山の頭頂部はまるで悪魔のそれのように天に向けて二つの角を突きだしている。その沼の水の無機的な青さと、赤い山塊との神経を逆なでるようなコントラストが、人間の立ち入りを一切拒む原始の風景を生みだしている。その異様な光景は疾走する列車の車窓の向こうに、延々半時間ほども続いていたのではないか。私はその風景をみながら、とんでもない所に来てしまったという思いで、背筋を貫く戦慄に震えていた。

 後から知ったが、ちなみにその場所一帯の名前は「大沼国定公園」というものだった。そしてその異様な山の名は「駒ヶ岳」といった。

 確かにそう名づけることで、その風景は人のものになる。前もってその名前を知っていたら、私もそんなに驚愕することもなかったに違いない。しかし私とその風景との出会いは、まったく唐突なものだった。その心の準備のない出会いは、概念によって記号化されない生の体験として、私の記憶に恐怖のくさびを打ち込んだのだ。恐怖は落差によって生じる。その風景の圧倒的な存在感と自分の卑小さとの落差において。

 二つ目の恐い場所は、北海道とは日本列島の対極に位置する鹿児島で私をひそかに待っていた。

 北海道旅行から約一年後、高校の修学旅行の行く先は九州だった。九州一周の旅も終わりに近づくころ、鹿児島県の薩摩半島の突端にある池田湖というところに行った。いまではネッシーの向こうを張った、巨大水棲動物イッシーの生息する湖ということですっかり有名になったが、そのころはただ池田湖から捕獲した巨大ウナギを見せ物にした素朴な観光地でしかなかった。

 薄暗い土産物屋の店先の水槽の底に横たわる体長二メートル、胴体の直径は二十センチほどもあろうかと思われるお化けウナギを、ふと蒲焼きにすることを想像し(たぶん日本人ならみんな想像するだろう)、思わず吐き気に襲われながらそこを早々に退散した。しかし恐るべきものはその後で私を待ちかまえていたのだ。

 池田湖の向こうには薩摩富士とも呼ばれる開聞岳がドカンとそびえていた。高さはたかだか千メートルほどでしかないが、富士山をもっと鋭角にしたようなシンメトリカルな山容が、平地からそのまますっくと立ち上がっており、見る者を威圧するような存在感がある。

 池田湖からの眺めでは、手前にある低い山並みに邪魔をされてその全容が見えなかったのだが、バスに乗って海岸線を走りだしたとき、開聞岳がその姿をすべて現した。それを見て私は思わず息をのんだ。

 なんとそのシンメトリカルな山裾の一方は、そのままの急な角度で海へとストンと落ちているのだ。普通なら山裾の辺りでいったんなだらかになり、海岸なり、砂浜なりがあって海へとつながっていく。しかし開聞岳ばかりは、そんな人間の常識をあざ笑うかのように、山頂からそのままの角度を保ち、定規で引いたような直線がなんのためらいもなく海へと突っ込んでいく。それがたまらなく恐ろしかった。

 いま、そのときの印象が年月によって私の中でおおげさなものへと勝手にふくらんでしまったものではないかと疑って、インターネットで検索して開聞岳の写真を開いて見てみたが、それをみてもやはり相当恐かった。

 黒潮に乗ってはじめて日本列島にやってきたとき、はじめて見る未知の土地との出会いが、この山稜が海に落ちる開聞岳の異様な姿、であった者たちも多いことだろう。私だったらその光景に震え上がり、そのまましっぽを巻いてきっと逃げ帰ったに違いない。こんなところに上陸した奴らはよっぽど根性があるか、あるいは神をも恐れぬ輩たちであったかのどちらかであるに違いない。

 三番目の風景は、いままでの日本列島の両はじの二カ所に較べれば、ご近所といってよい距離の所に待ちかまえていた。まさかこんな所でという油断が私にもあったといってよい。

 二十歳前後のころ、私は学校にも行かず、仕事もせず、天下の素浪人を名乗って毎日ブラブラと過ごしていた。なにもすることがなくて、暇をつぶすのに苦労していたので、大学に行っている友人などからお誘いがかかると、喜びいさんでどこへでもいそいそと出かけていったものだ。

 そのころよく三浦半島の先端にある、マグロの漁港で有名な三崎港へ出かけていくことがあった。なぜか仲間内で三崎参りがはやったのだ。三崎までは車で私の家から一時間ちょっとくらいで行くことができた。三崎という町は電車では行くことが出来ず、陸の孤島のような趣のある町である。

 漁師町であり、どこか時代に取り残されたような、昭和三十年代的な懐かしさが残っていた。たとえば銭湯の前を通ると、低い壁の向こうにすだれを透かして女湯の脱衣場が見えたりした。けっしてのぞき見しようとしたわけでなく、道を歩いていると、目線の高さで自然に見えてしまうのだ。そういう開けっぴろげな町だった。パチンコ屋の釘もいささかよそに較べて甘いような気配があった。ほんの一時間で行ける土地だったが、ちょっとした旅行気分を味わうことができた。

 三崎にひきつけられたのは、一軒の天ぷら屋の存在も大きかった。たまたま通りがかりに入った三崎港に面した「天咲」という名の店で、巨大なかき揚げが名物だったが、天ぷらだけでなく、刺身類も新鮮で、いつもあったわけではないがマグロのトロの盛り合わせというのはすごかった。

 マグロにはそんなに種類があるのかとおどろくほどの、さまざまなマグロのトロを出された。牛の霜降りにそっくりなもの、真っ白でほとんど脂肪の固まりに近いものなど。どれもが新鮮で、魚肉というよりはクリームを連想させる極上品であり、ここで出すほどのものは銀座の寿司屋に行っても拝めないだろうというのがオヤジの自慢だった。

 値段も驚くほど安く、学生の懐でもどうにか通うことができた。あるいは学割料金だったのかもしれない。オヤジは開店からずっと酒を飲み続け、我々が帰るころにはいつもべろべろになっていた。八の字ヒゲを生やし一見とっつきにくいが、酔うと高校生の娘といまも一緒に風呂に入っていると自慢し、親孝行な娘だろう、というのにはまいった。残念ながら、いつかその店も姿を消してしまった。

 店を出ると、酔い覚ましに港に向かい、潮風の中で夜中近くまで大声で歌をうたいまくった。近くには警察署もあったのだが、よく逮捕されなかったものだと思う。

 三崎に行くルートはいくつかあったが、やや遠回りであるが、三浦海岸を抜けてその先三浦半島の先端をぐるっと回っていく道が気に入っていた。スイカ畑を縫っていくようにたどる道は狭く、街頭もないため、日が落ちると道の両側は真っ暗で、果たしていま走っているのは畑の中なのか、道のすぐ脇が断崖でちょっとハンドル操作を誤ると海へとダイブする状況であるのかもわからなくなった。

 断崖沿いに急なカーブが続くことでもあり、その道に入るとなにか緊張して、やがてみんなただ黙って前方のヘッドライトに照らされたわずかな視野をみつめる状態となる。いま考えるとそれはある種のトランス状態に導かれる体験だったと思う。なんどそこを通っても、あるいはこのまま全然知らない土地に行ってしまうのではないかという、迷子になってしまったような心細い不安感に襲われるのだった。

 そしてようやく峠道が終わり、眼下に三崎の町の灯りがみえてくると、ほっとして「翼よあれがパリの灯だ」と心の中でひそかにつぶやいていた。悪夢から覚めたような開放感に包まれて、三崎で飲む酒の味は格別だったといえる。私たちはそのめまいのような非日常的な体験のとりことなって、きっと何度もせっせと三崎参りをしていたのだろう。

 あるときいつものようにその道を選んで三崎に向かった、三浦海岸の先から道は一度坂となって海べりから離れる、そしてしばらくしてまた坂を下り、再び海沿いの道となる。ときどき小さな集落が海と反対側の道端にへばりついている。ちょうど夕暮れどきであった。いつも私は町の灯りが見える時間帯に三崎に着くように計算して家を出てきたのだ。

 いくつものカーブが続き、深い入り江状の小さな湾のようなものが次々と現れる。私はなにげなく水面を見ていた。水面すれすれの高さに道がある。目の錯覚だろう、場所によっては今にも水が道にすーっと流れ出てくるように見える所もある。入り江の先は山にかくされて、まるで池か湖としか思えない。波一つなく、油を流したかのように静まり返っている。

 私はふとそれが海であることを忘れていたのに気がついた。あまりの水面の穏やかさについ湖でもあるかのように思いこんでいたのである。その穏やかな池か湖のように見えていたものが、本当は海であるということに気がついたとき、私はなにかゾッとした。一刻も早くその場所を後にしたいと思わずにはいられなかった。

 そこが記念すべき三番目の恐い風景である。その場所の名前はわからない。近くに住んでいる人は、ぜひその場所を訪れてみることをおすすめする。その場所の怖さというものは、ちょっと言葉では説明できないものがある。

 たぶん行って、ご自分で味わっていただくのが一番だ。ただし、時間は夕暮れ時の、ライトをつけたくなるちょっと前くらいの頃合いに行っていただきたい。そこは昼にも何度か通っていたが、明るいときに通ってもなんとも感じなかったからだ。たぶん条件がそろえば、きっと私と同じ体験を味わえるだろう。

 ここで紹介した私のささやかな体験について、なにかの解説をつけることは野暮なことだと思っている。ただこの風景との出会いによって私の中に引き起こされた感情は、ドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーによって名づけられたいわゆるヌミノーゼな体験であったということだけいっておきたい。

 オットーはこのヌミノーゼという用語を「聖なるもの」という言葉に含まれているものから一切の道徳的な判断や夾雑物を差し引いた、つまり純粋に超越的な存在との出会いよって人間の内部に引き起こされる「戦慄」とも呼ぶべき体験を意味するものとして定義した。

 この三つの場所こそは、私にとってヌミノーゼなものとの出会いを教えてくれた聖地なのだ。私はたとえばネイティブ・アメリカンの人たちの風習に習って、その聖なる場所に自分だけの名前をつけるべきなのかもしれない。

 この感覚はいまも、ロボットや恐竜などの巨大生物による都市の破壊や、あるいは隕石や洪水、地震、竜巻などのさまざまな自然のもたらす天変地異へとその姿を変えて、ハリウッド映画の中心的なテーマとして人々を魅了し続けている。

 神を失った私たちがそのヌミノーゼな感覚に出会えるのは、もはやポップコーンを抱えた映画館の暗闇の中だけになってしまったのかもしれない。

 私がこの三つの場所と出会ったのが二十歳前であったことは偶然ではないだろう。触れるとジュッと音を立てるくらいのみずみずしい感受性がなければそれは起こりえなかったことだ。

 その感性は今、私の中で決して死んでしまったわけではない。しかし生きるため、生産にたずさわるため、その感性を封印してこなければならなかっただけだ。昼と夜の区別のつかないビルの中で、ただやみくもに現在と格闘していた日々には、その感性は邪魔ですらあった。

 だが、こういう体験をなにに増しても求めている部分がいつも私の中にある。

 たぶん、ハリウッド製のヴァーチャルなスペクタクルを求めて、映画館へと足を運ぶ人々も同じ欲求によって突き動かされていると思われる。

 そう、私たちは「神秘」を求めているのだ。恋愛や快適な生活とやすらかさを求めるのと同じくらい、あるいはときにそれらをすべてなげうってでも、私たちはそれを求めている。

 なぜなら私たちは神秘の子供たちであり、神秘から生まれ、神秘へと去っていく存在だからだ。

 そんな私たちの頭上には、いつも五十億年の沈黙をたたえた星空が広がっている。神秘に出会いたかったら、互いを見つめあうことをしばらくやめて、ただ夜空を見上げればいいだけのことだ。

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